《親と子》

 11月になりますと、七五三という行事があります。諸外国でも、子どもの成長を願う行事があります。子どもの健全な成長を願わない人はいません。体が健康に成長することと共に、心も健全に成長していかなければなりません。一口に心の健全な成長といっても、人によって理解の仕方が違います。ある人は思いやりを持つことを挙げるでしょうし、他の人は忍耐力を持つことを挙げる人もいるでしょう。それらはどれも必要なことですが、親子関係がしっかりしていないと、思いやりも忍耐力も出て来ないことがあります。

親から十分な愛情が注がれなければ、子どもは他の人を大事に思うことは難しくなります。また、親から愛情を受けることと、希望を抱きながら耐える力を持っていくことも無関係のことではありません。しかし、親が子どもに愛情を注ぐといっても、どういう態度が愛情を注ぐ行為なのでしょうか。昔の人は、そのような定義をいちいち聞かなくても、なんとなくわかったと思いますが、今の人は具体的に教えられないとわからなくなってきました。

当たり前のことかもしれませんが、子どもを親の所有物のように理解していると真の愛情は生まれてきません。偏った愛情は生まれてくるかもしれませんが、真の愛情は生まれてきません。

子どもは親のために存在しているのではありません。子どもを一人の人格として扱う必要があります。現代の多くの親は、子どもが困らないように快適な環境を与えることに熱心です。これから欲しくなると思われる物を、先読みして準備しているような親もいます。そのように行動することが愛情を十分に与えていると思っているわけですが、実は子どもに対して支配的になっている場合も多くあるようです。十分なものを与えてきたという親と、支配されてきただけと思う子どもが、将来衝突する時が来るかもしれません。

 聖書の中に、親に対して語られていることばがいくつかあります。たとえば、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません」(1)ということばがあります。これは、子どもを理解しようとせずに頭ごなしに叱ったりする態度に対する注意です。また、これは子どもを親の所有物のように思ったり、子どもも一個の人格を持った存在としての理解が乏しいことに対する注意です。しかしこのことばは、いつでも子どもを中心に物事を進めなさいという命令ではありません。また、子どものご機嫌をいつでも取っていなさいという意味でもありません。

 現代は、家庭の中心が子どもである場合が多くあります。しかし、子どもが中心といっても、「子どもに対して親が期待すること」が、むしろ中心である場合があります。たとえば、子どもが何をやりたいかというようなことはまったく無視して、受験勉強に集中させたいと思う親もいます。また、子どもに物や服を買ってあげるのも、他の子が持っていて自分の子が持っていない状況を受け入れられない自分のためである場合もあります。このように考えてくると、本当に子どもを愛するということは簡単なことではありません。

 所有物ではではなく、一個の人格として子どもを尊重するわけですが、親は子どもの言いなりになっても、その態度は子どもを本当に愛している態度ではありません。もし、親が子どもの言いなりになっていたら、多分その子は社会に出ても秩序を重んじることはできなくなるでしょう。結果的にそのように生きさせてしまうのであれば、子どもを愛したとは言えません。「子どもをおこらせてはいけません」ということばは、主従関係を否定したことばではなく、主従関係がしっかりとある中でも、頭ごなしに叱ったり、子どもの言いたいことをいっさい聞こうともしない態度への警告です。誰でも理解されることを求めています。特に子どもは親に自分の思いや考えを理解して欲しいと願っています。幼い頃、そのような経験を持たない子どもは、青少年になった時には親と会話をすることはないでしょう。

 親と子は主従関係にあります。しかし、現代では母親は子どもに対して筋の通った叱り方をするというよりも、ただ不満の感情を爆発させるだけの場合もあります。また父親は、仕事で忙しいという理由もありますが、どのように子どもと関わっていいかわからなくなっている場合があります。これらに共通することは、父親も母親も、子どもの人格教育についての明確な基準を持っていないということが挙げられると思います。人は自動的にそのような基準を身に着けるわけではないのですから、人生のどこかの時点で、そのような基準を取り入れなければなりません。聖書には、結婚、家庭、子育てなど、人間が生きていくうえでの必要な基準が示されています。ぜひ教会においでくださって、そのような基準について学んでいただきたいと願っています。

(大泉聖書教会 牧師池田尚広)

〔※1〕新約聖書エペソ人への手紙6:4