《神の愛》

 聖書の中に、「神は愛です」ということばあります。また、神の愛についての説明も多くあります。それでも、それをわかりやすく説明するのは、簡単なことではありません。

ある人は、教会に行くということは、いわゆるお説教をされるために行くと思っている人もいます。ですから、日々の生活で、ただでさえ精一杯なのに、さらに重荷を負わされるようなことはしたくないと言います。

神の愛を、なるべくわかりやすく説明させていただきたいと思います。しばらくまえの映画で、「刑事物語」という映画がありました。武田鉄矢という俳優が刑事役を演じています。その中で、売春をして補導された女子校生が警察に連れられてこられました。刑事たちは女子校生たちに、「このままじゃだめだ」という感じでお説教をしました。『おまえたち、そんなことをしていちゃだめになるぞ。話を聞いているのか!』高校生たちは全然聞いていません。次々に刑事たちが話しかけて『ちゃんと話を聞きなさい』と言っても、『閉じ込めるの?いやーだ!』などと言って少しも真剣にならず、刑事たちを困らせました。そこで、武田鉄矢が扮する片山刑事が言います。『ちょっと僕に話をさせてください』『そうか、頼む。おれたちは飯を食ってくるから』

と、ほかの刑事たちは出ていってしまいました。片山刑事はじっとその三人を見て、『君たちいくつ?』と聞きました。『十八。』『十六。』『五十。』

『名前は?』『淡谷のり子』女子高生たちはふざけています。

『年なんか聞いてどうするのよ。どうせ年のわりにはふけているな、そんなことをしているからだと言いたいんでしょ』『そんなことないよ。だって君たちの目はとてもきれいだもの。』そのことばを聞いた彼女たちはびっくりして彼を見つめました。しかし、『ああそうか。そんなことを言ってあたしたちを乗せようというのね。手なずけてようっていうのね。その手には乗らないわ』と、はねつけました。

また、しばらく片山刑事は彼女たちに話しましたが、『はい、道徳の時間はおしまい!お説教は終わり。結局お説教だよ』と、彼女たちはそっぽを向きました。『わかった、かわった。もう何も言わないよ。僕からも君たちがなるべく早く帰れるように頼んでみるよ・・・ただね。君たちはきれいなんだよ。本当に・・・美しいんだよ。わかってくれないかな。・・・』そう言いながら片山刑事の目には涙がたまってボロボロに落ちてくるのです。

彼女たちはびっくりして何も言えません。呆然として彼の顔を見つめていると、片山刑事は怒ったような顔になって立ち上がり、イスをバーンと払いのけました。

それから片山刑事は彼女たちの前に土下座して、『お願いします。お願いします。わかってください』と叫んだのです。

 ちょうどその時、別の刑事たちが戻ってきました。そして、『おまえ、何をしてるんだ』と片山刑事を起こし、一緒に部屋を出ていきました。その片山刑事の姿を女子高生たちはじっと見送っていました。

 以上のようなストーリーでしたが、「神」という存在がいるとしたら、それは最初の刑事たちと似たようなものだと想像している人が多いようですが、そうではありません。聖書の中で、いちばん有名なことばとされる新約聖書ヨハネの福音書3章16節17節は次にように語っています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、(よ)〔世の人々のこと〕を愛された。それは御子(みこ)(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 紹介した刑事映画で、片山刑事は彼女たちの行為そのものを肯定したわけではありません。その点は前の刑事と同じですが、何が違ったかというと、片山刑事は彼女たちの行為と彼女たち自身の価値とをいっしょにしてはいなかったという点が違いました。最初の刑事たちは、彼女たちの行為と彼女たちの価値をいっしょにしました。そして、価値を高めるためにも、行為を正せと言いました。しかし、片山刑事は君たちが何をしてこようが、君たちはすでに高い価値を持っているから、そのような行為はやめるんだと言いました。

 実は、神も私たちに対して、あなたが何をしてこようが、あなたはすばらしい価値を持っているという視点で私たちを見てくださっています。聖書の中には、神の御性質の一部を私たちに持たせたということを述べている部分もあります。また、神が私たちの魂の親であるということを述べている部分もあります。親であればわかることですが、親は子どもの存在自体を愛しています。

 あなたという存在を愛している神について、ぜひ、知っていただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。ぜひ、おいでください。   (大泉聖書教会牧師 池田尚広)