《自分を愛する》

 自分をイヤでしかたがない人は、他の人を大切にすることもできないと言われます。人は自分に対して情けないと思っている部分や、恥ずかしいと思っている部分があるとすると、他の人のもっとダメな部分を探して、なんとか慰めを得ようとする心情を持つことがあります。そのような行動をとる背景には、自分が嫌いであるという思いが隠れています。

 自分を大切にできる人は、他の人をも大切にすることができると言われます。ただ、自分勝手で自分のことばかり考えている人が、他の人をも大切にできるとは思えません。親が自分の子どもに対して、甘やかして自分勝手にさせることは、その子を本当に大切にしていることではありません。子どもを健全に愛する生き方があるように、人がその人自身を健全に大切にする生き方があります。

 しかし、人によっては、幼少期に十分な愛情を親から受け取ることができなかったという人もいます。そのような人の場合、自分という存在を受け入れ大切にするということが難しい場合があります。

 聖書の言葉の中に、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい」(1)という言葉があります。この言葉は自分を愛するということが当然のことであるという前提で語られています。「あなたは自分が大事でしょ」という前提で語られています。

自分が大事であるけれども、自分という存在を誰もが健全に受け入れているかといえば、必ずしもそうではないことがあります。

 心理学者のエリック・バーンという人は、自分と他者との理解の仕方を四つのパターンに分けました。第一は、「私はOK、あなたもOK」というパターン。第二は、「あなたはOKだが私はOKではない」というパターン。第三は、「私はOKだが、あなたはOKではない」というパターン。第四は、「私もあなたもOKではない」というパターンです。OKとは存在を肯定することであって、失敗や間違いをしないということではありません。具体的な行為を反省したり批判したりはするが、存在そのものを大事にして受け入れる姿勢を表しています。誰もがわかるように、健全な精神は第一のパターンです。

このことは、その人が親から存在を大事にされたかどうかということに関係することが大きいですが、そればかりではありません。自分という存在が、なぜこの世に存在しているのかということについて、健全な回答を見出しているかどうかということに関係することです。神の存在を認めて、神が特定の親を用いて、自分という特定の個性と能力を持った者を、意味と目的をもってこの世に存在させたと認めているかどうかに関係することです。

ある方は、身体にハンディキャップも持って生まれてきます。ある方は、ほとんど食べ物もないような環境の中で生まれてきます。そのような場合、神が定めたとするよりも、むしろ偶然だったと教えたほうが良いのではないかと言う人があります。

 たとえ、どのような環境で生まれようとも、どのような不自由さを持って生まれようとも、神はその人に意味と目的を持たせたというのが聖書が語っていることです。人間にとって本当につらいことは、存在の意味と目的を信じることができないことではないでしょうか。

 ある牧師から次のような話を聞いたことがあります。ある男性の医学生がいました。ある時、両目の眼底に出血があって、しばらくして両目とも完全に失明してしまいました。家で母親がその人のめんどうを見ていましたが、母親に対する乱暴な言葉が増えてきました。母親は息子の荒れた心を受け止めながら、何かを取って来てくれと言われれば取って来てあげて、本を読んでくれと言われれば本を読んであげていました。ある時、家にあった聖書を読んでくれと言われたので、ある箇所を何気なく読んでいました。息子が急に大きな声で、「今のところをもう一度、読んでくれ」と言いました。そこには次のようにありました。

「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(新約聖書ヨハネ福音書91-3

 失明した医学生は、この箇所に出会ってから教会に行くようになり、神を信じました。また、自分にできることをしていくようになりました。

 私たちの歩みは、先天的な問題を持って生まれてくることもあれば、事故や病気などの後天的な問題を持つこともあります。そして、すべての人はやがて死んでいきます。このような人生の中で、問題が起きない人生をおくることは無理です。数十年という人生の中に、意味と価値を持たせてくださった神を認めることが、良い人生です。

 教会では、あなたのおいでをお待ちしています。ぜひおいでください。

(大泉聖書教会牧師池田尚広)

(1)新約聖書マタイ福音書22:39