《受け入れることと、戦うこと》

 今年から裁判員制度が始まり、裁判に関心を持っておられる方も多いと思います。このあいだは、栃木県で起こった幼女殺害事件の犯人とされた人が、本当は犯人ではなかったことが明らかになりました。

 日本における
冤罪(えんざい)事件(罪がないのに罰せられること)として、最初に有名になったものは免田事件です。免田氏は、1948年に起きた事件の犯人とされ、34年間獄中で過ごすこととなりました。一貫して自分の無実を主張し続けました。また、獄中でキリスト教の信仰を持った人でもありました。免田氏は釈放後に数冊の本を著していますが、記されたものを読むなかで、周囲の人の罪ということも感じさせられます。

 たとえば、その著書の中で、免田氏は次のようなことを述べています。「獄中34年、まったく身に覚えのない殺人という、とんでもない大罪を押しつけられたのは、益田や馬場や木村ら、人吉自治警察の刑事が売春の保証人である事実を、たまたま私が見聞きしたことに端を発する。このため強制的に冬の暗夜に連行され、死刑囚の烙印をおされ、獄中で言葉に絶する苦難を強いられ、熱帯の砂漠を旅する者のように、いっさいの希望を絶たれ、獄中で暮らしたのである」(*1)という事実が述べられています。

 これからの日本の社会は、冤罪がなくなり、最後まで真実が追求される社会であってほしいと願わされます。

 刑務所の中には教誨師(きょうかいし)という方がおられます。教誨師は仏教、キリスト教などの宗教関係者であり、受刑者の心の教育のために話をすることを任務としています。免田氏はキリスト教の教誨師(牧師または神父)の導きもあり、その信仰を持つに至りました。免田氏は、当時の刑務所内で語っていたその他の教誨師の話の内容にも問題を提起しています。

「死刑確定者にとって致命的なことは、日本人が宗教に弱く、歴史的にも権力に癒着している宗教家が、因果律(いんがりつ)の観念思想を吹き込む。その虜となり、そこから這い出る努力をしない。よく「仕方がない」という声を聞いたし、「死刑確定していて、いつまで手数を煩わせるな」という声を聞く。毎週、教誨師が来て説かれる説法は因果律で、前世において死刑囚になる因を持っていたから現世において死刑囚になっている、故にそのままの姿で処刑されねば救われない、とまことしやかに説かれては、宗教に弱い臆病な者は確定判決に不服があっても再審をあきらめるしかない。つまり、司法と宗教界が一体となり裁判の不公平を抹殺していると言っても過言ではない」(*2)

 私たちの身に何が起きるかわからないこの世で、確かな死生観や、生きるための確かな土台を持っていただきたいと思います。

5月のIZUMIで、「自分を愛する」という意味で、自分に与えられたものを受け入れるべきであるということを書きました。たとえば、生まれながらの性格や性別などがそれに当たります。また、大きな事故などに遭って、身体的な不自由を抱えてしまった場合なども、先に進むためには、現状を受け入れて、できることをしていかなければなりません。

 しかし、間違いや何かの策略で無実の罪が着せられたような場合は戦わなければなりません。前世の存在や前世の因果などはありません。人は、神から一定期間の命を与えられ、やがて時が来て、その命を神にお返ししなければなりません。聖書の中に、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」(*3)という言葉があります。人は、命を与えてくださった神に命をお返しする時まで、精一杯生きる使命があります。

 20年ぐらいまえまでは、前世のことや因果のことを教えたり聞いたりする人がいる場所は、宗教施設か刑務所のような特殊な場所だけに限定されていたように思います。しかし今は、占いから始まって、前世や因果のことなどにも、若年層から40歳台ぐらいまでの方々で関心を持っている方が多くおられます。遊び感覚のようなところもあるかもしれませんが、そうでもない人たちもいるようです。あなたが、もしかして免田さんのような立場に立った時、あなたに「前世の因果だからあきらめなさい」と言う人がいたら、あなたは冤罪を受け入れるのでしょうか。もちろん、本当に悪いことをしたら、法の裁きを潔く受けなければなりませんが、間違って捕らえられたなら、誰が何と言おうと、真実のために戦わなければなりません。また、あなたに命を与えた神のためにも戦わなければなりません。

 ほとんどの人は、免田さんのような特殊な立場には立ってはいないわけですが、長い人生の中で、もしかして突然に、あなたの人生観や死生観が問われる時が来るかもしれません。前世だとか、因果だとか言う人に影響されて、お金を騙し取られてもいけません。

 ぜひ、あなたを生かしておられる神に目を向けていただきたいと思います。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。(
(大泉聖書教会牧師池田尚広
)

(*1)「免田栄獄中ノート」p.150(*2)p.139

(*3)旧約聖書伝道者の書3:2