《外国に行って信仰を持った人》

 キリスト教会に行くことは、多くの人にとって敷居が高いようです。しかし、アメリカなどの外国に行った時に教会に行き、そこでキリスト教信仰を持ったという人たちが少なからずおられます。今回は、そのような経歴を持つT.Y.さんのことを紹介させていただきます。

 T.Y.さんは、20代の若さで、難関国家試験の一つである弁理士(特許関係の専門家)の試験に合格した。30歳の時にアメリカで自分の力を試したいと思って渡米する。アメリカに来て初めて住んだアパートの前に教会があった。その教会は、フィラデルフィア・プロクラメーション長老教会という教会で、日本人が近くに多く住んでいるので、日本人への英会話コースの働きをちょうどはじめていた頃だった。無料でネイティブのアメリカ人に教えてもらえるということで、まず、T.Y.さんの奥さんが教会に通い始めた。やがて自分も通い始めて、礼拝にも出席するようになった。そのときのことを「何事も体験してみようという積極的なタイプだったので、行くことには抵抗はありませんでした。毎週一回ためになる話を聞けることは新鮮な経験でした」と振り返っている。

 一年ぐらい経った時、日本語ミニストリーの李牧師から『イエス・キリストを受け入れますか』と聞

かれ、『いいですよ』と答えた。すると、知り合いの教会員から『おめでとう。おめでとう』と何人もお祝いの電話がかかってきた。その時は、なぜ『おめでとう』と言われるのか理解ができなかったとT.Y.さんは言っています。

 アメリカで生活するなかで、T.Y.さんは日本では起こらないさまざまなトラブルに遭遇することになります。突然、健康保険が打ち切られたり、トラブルを起こすスタッフに悩まされたり、入居予定のオフィスの内装工事が遅れるというようなことがありました。「今まで自分の力で苦難を乗り越え、成功を得てきました。しかし、自分の力ではどうにもできないことがあると、初めてわかったんです」とT.Y.さんは振り返っている。その後、教会などで必死に祈ったが、糸口は見つからなかった。ある日聖書を読んでいると、次の言葉に目が釘付けになった。

「願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。・・・聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう』と言う人たち。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧に過ぎません。」(※1)

そして、T.Y.さんは「まさにその聖書で語られている人物はアメリカに来た私そのものだったんです。今まで言語、文化の違いがビジネスの障害になっているとばかり思っていました。しかし、ひと儲けしようと高ぶっていた自分の罪に問題があると気づかされました。」と言っています。また、その時に初めて「おめでとう」と言われた意味がわかったとも言っています。その時を境に、祈りの態度が自分の思いを実現させようという態度から、神が行おうとされていることは何かを求める祈りにかわったそうです。そして、しばらくして妻と娘といっしょに洗礼(入信の儀式)を受けました。

 T.Y.さんはフィラデルフィアで15人のスタッフを抱える会社のオーナーであるが、クリスチャンになってから、ビジネスとは単なる経営者の自己満足、自己実現ではないことがわかったと語っています。(「バイブルに見るビジネスの黄金律2」マナブックス参照)

 経営者という立場にある方々は、何かの人生訓を持っていたり、ある種の宗教的な背景のある方々が多くおられます。先の見えない世界で、自分の限界を感じ、先を照らす何かを欲したからではないでしょうか。宗教は弱い者が持つものだという考えは、日本の社会ではまだまだ根強いですが、多くの経営者の方々の歩みの中から、人間とはそれほど強いものではないということを、ある程度認められるのではないでしょうか。また、経営者のような限界状態に置かれることが多いなら、誰でも何かしらの宗教的な世界をへりくだって求めることがあるということも言えるのではないでしょうか。

 宗教的な世界観を持っている経営者に共通していることは、自分より上の存在から今所有しているものを預けられているとか、任せられているとか、そのような考えを持っていることだと思います。その上の存在は誰なのか、架空の存在なのか、便宜上の存在なのか、実際に存在する神なのか、そのへんのところで意見が分かれるかもしれません。聖書の中に「キリストは神の本質の現われ」(2)という言葉があります。ぜひ、聖書のことばを学んでいただき、また、イエス・キリストについて知っていただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。(大泉聖書教会牧師 池田尚広)

(1)新約聖書ヤコブの手紙4章3節、13,14

(2)新約聖書ヘブル人への手紙1章3節