《私たちの精神風土》

 科学技術が進歩し、生活スタイルは劇的に変わったとしても、私たち日本人の中で大昔から変わらないものがあります。その一つが、「がんばり主義」だと思います。もちろん、努力してがんばることは良いことですが、その精神風土が原因で自殺者が多いなどの問題も生じているなら、考えなければなりません。その原因については、多くの意見があるかもしれませんが、わが国独特の「がんばり主義」が問題の根本にあるとするなら、説明がスムーズにいきます。たとえば、精神科医が患者に「がんばらなくてよい」と勧めるということは、多くの人が知っていることですが、なぜ医者がそのように勧めるかというと、もともと病んだ人が極端にがんばる性格であったことが病気の引き金になっているからです。

 奈良時代の末期に出された「僧尼令」(そうにりょう)の中には、修行者があまりにも無謀な修行をするので、それを禁止するための一文もあったそうです。たとえば、修行者は死ぬことも恐れず、水の中や火の中に飛び込むようなことをしました。修行者が生命をかけて即身成仏するために難行苦行をした時代でした。そのような無謀なことをなぜしたかというと、その行為をすることで、自分の中の罪を滅ぼすことができると考えたからだそうです。

また、自分のためだけではなく、他の信者の罪も背負い、さらに死者の代わりに苦行するというところまでいき、その教えが広がっていきました。キリシタンの時代、宣教師がローマ教皇に、山伏が「みんなの罪を背負って死ぬ」と言っているのを実際に見たと、驚きの報告をしています。山伏たちは、身を捨てることですぐれた霊力を身につけ、また自分も他人も救えると考えたのです。こうした修験道の信仰は仏教の中でも自力傾向の強い仏教の教えと結びついていきました。

 修験者に見られる「がんばり主義」は、時代が変わっても、今の私たちの社会の中にも見られます。また、見るほうからしても、自分をギリギリまで追い込んでいる人に共感を覚えます。たとえば、マラソンがこれほどまでに人気があるのは、日本だけかもしれません。

努力するということは良いことです。また、自分の体や精神をギリギリまで追い込むことも、たまには必要な時もあります。

それでも、壁にぶち当たって、可能な限り努力して、しかし何も進展が見られないということも多くあります。がんばり主義にどっぷりと漬かっている人は、自分を責め続ける傾向にあります。そして、なかには自分の精神に異常をきたす人もいます。

 わが国では、毎年3万人以上の自殺者が出ています。不治の病を苦にした場合もあるでしょうし、経済的な問題を苦にした場合もあります。うつ症状が長く続き、精神的にまいってしまって命を断つ場合もあります。いろいろな原因がありますが、後悔や自分を責め続けることが根本にあるなら、憐れみ深い神に頼っていただきたいと思います。「神に頼る」ということばを聞いて抵抗感を感じるのは、我々日本人が「がんばり主義」の中で生きているからです。

神に頼ってしまったら、努力をしないということと同じなので、人生の敗北だと思う人が多くいます。しかし、神に頼るということと、努力をしないということは、同じことではありません。いろいろなスポーツの試合で、祈ってから競技に臨んだり、競技を終わってから祈ったりするスポーツ選手を見たことがあると思います。彼らは神を信じたので、努力をしてこなかった人ではありません。神を信じるということと、努力をするということを同時にしてきた人です。どのような部分で神に頼ってきたかというと、たとえば、事故に遭わないことや、ケガをしないことや、集中して競技に臨むことなどです。交通事故に遭わないためには交通ルールを守り、正しい運転をしなければなりませんが、それでも事故に遭ってしまう場合もあります。私たちの生活で、努力をするということと、神に頼るということは、同時に成り立つ事柄です。

それでも自分の弱さや不完全な部分を認めるということは、なかなかしたくないことかもしれません。誰かの前で、それを告白しなさいというのではありません。自分の祈りの中で、いろいろな思いを神に告白しながら、神に頼ればよいのです。神に頼ることを限界状態の者だけがすることと考えないでください。神に頼ることは、ごく自然な行為です。イエス・キリストは次のように語られました。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(キリスト)  〔新約聖書マタイの福音書11:28〕

教会では初心者の学びもしていますので、ぜひご連絡ください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。     (大泉聖書教会牧師 池田尚広)

〔修行者の部分:勝本正實氏の著書参照〕