あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(キリスト)  〔新約聖書マタイの福音書7:11〕

《天の父は良いものをくださる》
 キリスト教のイメージとして、困難な境遇もじっと耐えているようなイメージを持っておられる方が多いようですが、決してそればかりではありません。イエス・キリストは、あなたがたの父(神さま)は、求める者には良いものをくださると言われました〔上のことばを参照のこと〕。このことばの前には、お聞きになったことがあると思いますが、次のことばがあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(1)

 ここで言われている「求める」とは、単なる追求ではありません。それは、神に願い求めるということです。新約聖書の原語はギリシャ語ですが、文法的に表現されていることは、神に願い求め続けなさいということです。

 現実の生活の中で、「祈り」ということに対する反応は千差万別です。ある人は、ご利益信仰に漬かるのではなく自分で努力することを選ぶと言い、ある人はどれだけ願いが叶うかという統計を見て、良い結果が多く出ていれば興味を示すでしょう。その他にも、「祈り」ということに対する反応は、さまざまなパターンが考えられます。

 しかし、あなたが求めていることはあるはずです。神はあなたが自分の口でそれを告白することを待っておられます。ちょうど親が、自分の子どもが素直に願いを言うことを待っているようにです。あなたが親であれば、子どもの願いを叶えてあげたいと思うはずです。あなたの霊の親である神も、そのように思っておられます。ただ、親であればわかることですが、親は何でも子どもの願いを叶えてあげることはしません。良い親であれば、経済的な余裕があっても、子どもに待つことを教えます。待つあいだ、子どもはそれが本当に必要なことかを、否が応でも自問自答しなければなりません。そのあいだに、別の興味が出てきたら、別のものを願うことになります。結果的に、長いあいだ待ち続けることができたものだけが、本当に必要なものということになります。良い親は、そのようなものだけを与えることでしょう。神さまは、私たちの良い親です。

私たちの熱心さが神を動かすのではありません。必要なのは、神の前に素直な心と、あきらめないで願い続ける心です。もしそうであるなら、祈りは正しい方向に修正されていくものです。たとえば、仕事をしないでお金が欲しいと願い続けているなら、仕事をくださいと祈るようになるものです。単に、お金が欲しいと祈り続けているなら、何のために使うのかと自問自答させられるものです。私たちが本当に神の前に素直な心と、あきらめないで願い続けるならば、良い時に、神さまは良いものを与えてくださるはずです。

先のIZUMIにも書きましたが、祈る時には、ひとり静まって「神さま」とか「天の父なる神さま」などと呼びかけます。それから、神の前で高慢な思いや汚れた思いがなくなるように、感謝すべきことを言い表したり、ごめんなさいというべきことなどを言い表します。そのあとに、自分の願いごとを言い表します。そして、最後に「イエス・キリストの名まえによって祈ります。アーメン」と言います。アーメンとは、ヘブル語で真実という意味です。この祈りは、真心からの祈りですということです。

イエス・キリストは次のように語りました。「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(2)

聖なる神に届く祈りは、神の子キリストの名によって祈る祈りです。私たちの罪と汚れのために死んでよみがえったキリストが、私たちの願いを神のもとに届けてくれるのです。その人が、キリストの名によって素直に祈ることができるということは、神の前にへりくだっている証拠です。自分が神を動かすとか、霊の世界を動かすなどと考えている人は、キリストの名によって祈りません。キリストの名によって祈っているということは、罪や汚れも意識し、それがきよめられなければならないと思っているということです。

ぜひ、私たちの罪のために死んでよみがえったキリストを信じてください。そして、私たちの霊の親である神に向かって祈り求めてください。また、教会にもおいでください。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)                                 

(1)新約聖書マタイの福音書7:7

(2)新約聖書ヨハネの福音書16:24