《神はすでに私たちの願いを知っている》

祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(キリスト)

 〔新約聖書マタイの福音書6:7〜8〕

祈るとき、あなたはどのようなイメージで祈るでしょうか。熱心さが、何かを動かすというイメージを持っておられるでしょうか。

右上に記した言葉からわかることですが、すでに1世紀の時代から、同じ言葉を熱心に何度も繰り返すことで、願いが実現すると考えた人がいました。その人たちは繰り返す言葉の回数によって願いが叶うと考えたのでした。しかしイエス・キリストは、それは正しい態度ではないと語りました。その理由として、神はすでに、あなたがたの願いを知っているからだと言いました。その言葉の背後には、すでに私たちの心の中をご存知の神に向かって(全知全能の神に向かって)、あたかも熱心に知らせなければならないような態度は正しい態度ではないという意味があります。

 でも、何も口に出さなくてよいということではなく、そのあとで、「主の祈り」として有名な単純な祈りを弟子たちに教えました。「主の祈り」は、キリスト教系の学校に行かれた方はご存知だと思います。以下のような祈りです。

『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

 すでに「主の祈り」をご存知の方の中には、文語体(古い言い回しの日本語)に慣れておられる場合がありますが、このページでは現代語で記しました。

 「主の祈り」は、最初に神をあがめることを勧めています。願う者は有限な人間であり、祈りをささげる対象は、全知全能の神であることを自覚させる効果があります。神の前に謙遜な祈りだけが神のもとに届きます。

神のみこころ(神の意思)がこの世で実現することを願ってから、次に自分の願いを言う形となっています。人間が願ういちばん基本的なことは日々の必要のことです。日々の必要の中で、不可欠なものの代表格が糧(食べ物)です。「主の祈り」は、日々の食べ物ぐらいしか求めてはいけないというメッセージではなく、そのような基本的なことから願い求めなさいというメッセージが込められています。糧に対する祈りは、すでに十分持っていることも、神の恵みであるということを思い起こさせる効果を持っています。何不自由なく持っているものを、なぜ願い続けなければならないかというと、そのようなものも得ることができない可能性があるものであり、持っているということは当たり前ではなく、恵みであるということを確認させる効果があります。

 イエス・キリストは、他の箇所で、欲しいものを何でも神に願い求めていいことを語りました。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(1)

ですから「主の祈り」は、その祈りだけをしていなさいという祈りではありません。必要不可欠のものから願い求めることを教え、与えられていることに対しての感謝も思い起こさせる祈りです。

 日々の必要の他に、人間にとって本当に必要なものが罪の赦しです。罪とは、神に対する負いめであり、また他人に対する負いめとも言えます。人によって、負いめを感じやすい人と、とんでもないことをしても負いめを感じない人がいますから、負いめという言葉は必ずしも罪を的確に表現しているとは言えないかもしれません。しかし、普通の心があるなら、すべてを見ておられる神の前で、誰でも負いめがあることを理解していただけると思います。神は私たちに対して、きれいな心で生きて欲しいと願っています。きれいな心とは、赦された心です。神は、神の子キリストを犠牲とされ、その贖いよって信じる者に赦された心を与えてくださいました。祈りのこと、赦しこと、その他のことをぜひ学んでいただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。
(大泉聖書教会 牧師池田尚広)

(1)新約聖書ヨハネの福音書16:24