《目には目》

聖書の言葉で、世の中では普通のことわざのように思われていることばが多くあります。その中で「目には目、歯には歯」ということばがあります。

日本でこのことばは、「やられたらやりかえせ」という意味で理解されていますが、聖書のことばを詳しく分析してみますと、「仕返し」を促していることばではないことがわかります。

 旧約聖書の3箇所に同じことが書かれていますが、その一つのレビ記という箇所には、次のようにあります。

「 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」(旧約聖書レビ記24:23,24)

 読んでわかるように、被害者の権利が書かれているのではなく、加害者が法的に同等の罰を受けるべきことが定められています。結果的に同じだと思う人もいるかもしれませんが、そこには大きな違いがあります。もし、被害者の権利がこのように主張されるなら、この世界は悲惨な戦いの連鎖を断ち切ることはできないかもしれません。

この法令の要点は、加害者となる可能性がある者に、「おまえはその覚悟があるか」と促していることにあります。そのようにして、社会を悪から守ろうとしているわけです。それから、ひとつの事件を当事者間だけの問題とするのではなく、社会の問題として提起し、裁く主体が法であるとしている点が大きな違いです。

 今から3千5百年もまえにこのような法令ができていたことは驚きです。この法令がそのまま現代で使われているわけではないとしても、その精神は現代の法律に生かされているとも言えます。

聖書は毎年世界のベストセラーですが、それにはいろいろな理由があります。このような法律的な部分も聖書にはありますが、そこには大昔に定められたにも関わらず、現代人の心をも正す公正さと真理があります。

日本の社会は明治以降、西欧の法の概念を学んで現代に至っています。西欧で法律が作られるための基礎となったのが聖書であり、キリスト教です。

最近では、「神」の名のもとに戦いが行われる様子をニュースで見て、宗教一般に対して辟易している方々が多いような気がします。また、一神教は野蛮で多神教は和を重んじるので良いと言っている人もいるようです。江戸時代に行われたキリシタンに対する迫害は、世界のキリスト教史に残る迫害であって、決して多神教社会が良いとは言えないと思います。

重要なことは、その教えが正しいかどうかということです。自分の信じる神の名のもとに、違った考えを持つ他者に対して嫌がらせをするようなことは決してあってはなりません。「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」と聖書にある通りです(隣人とは、近所の住人のことではなく、出会う可能性がある人のことであって、すべての人を指しています。また、ここで「自分以上に」と書かれていないことにも注意する必要があります)。

 聖書のことばは合理的であり、決して机上の空論を述べているのではありません。「目には目」のことでもそうですが、聖書の文脈が無視されないことを願っています。

教会ではあなたのおいでをお待ちしています。 (大泉聖書教会 牧師池田尚広)