《こだわりからの開放》

 昔、サルを獲る人がいた頃の話です。人間の運動神経に比べて、サルのほうがはるかにすぐれていますが、ある方法を用いると人間でも簡単にサルを捕獲できたそうです。木の幹に、サルがなんとか手を入れることができるぐらいの小さな穴を開けておきます。そして、サルの大好きな木の実をその穴の奥のほうに入れておきます。すると、サルがやってきて自分の手を穴の中に入れて木の実をつかみます。穴が小さいので木の実をつかんだままだと、穴から手を出すことができません。その時に、サルを獲る人は、急ぐ必要もなく、ゆっくりとサルに近づいていきます。サルは、木の実をはなして手を穴から抜くかというと、そうではありません。人間が近づいて来るので、恐くてギャーギャーと叫んでいるにも関わらず、木の実を手から離そうとはしないのです。サルを獲る人は、木の棒でサルの頭に一発パンチをくらわして、気絶させてサルを簡単に捕獲したということです。

 この例は、こだわっているものがあると、それが命取りになることがあるということを教えています。こだわっているものは、人によって違います。

こだわっているものは見栄だったり、人目だったり、みんなと違うところがあるといやだということだったり、特別な習慣だったり、いろんなパターンがあるかもしれません。

 しかし、人間はサルとは違います。こだわっているものからの開放は、それに代わるものを得ることによって可能となります。ただし、人間が客観的に自分は何かに捕らえられているということを悟ったとしても、その人のガンバリだけではなかなかそこから開放されることはできないものです。今までその人を捕らえていたものに代わるものがなくてはなりません。

 たとえば、人目が気になってしかたがないということは、その人の行動の基準は「他の人が自分を見た時に普通の人と思われていたい(変わった人と思われたくない)」ということだと思います。特に、若い人たちは人目が気になるものです。そこから開放されるには、今までの考えに代わるものが必要です。自分の信じるものはコレだというものがあれば、人目はあまり気にならないものです。しかし、何かを信じるということは、その信じるものを自分の中心に置くことですから、簡単にできることではありません。

 教会に来る人が信じているものは、イエス・キリストと、キリストのことばが書いてある聖書です。キリストのことばに、次のようなものがあります。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(1)

「真理はあなたがたを自由にします。」(2)

人が何かを信じるためには、疑う時があり、確かめる時があり、勇気を持って踏み出す時があります。何事も、近づいて確かめてみなければ始まりません。ぜひ、このクリスマスの季節に教会においでください。そして、クリスマスの意味などについて知っていただきたく願っています。その他のことについては、徐々に時間をかけて理解していただければ幸いです。おいでをお待ちしています。また、何か質問などがありましたら、ご連絡ください。クリスマスの恵みが、あなたのうえに豊かにありますように。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)

(1)新約聖書ヨハネ福音書14:6

(2)新約聖書ヨハネ福音書 8:32