《あなたの帰るのを待っておられる神》

 私たちはみんな、育った社会の文化の影響を受けて育ちます。ある人が、「神」とは自分のあとからノートを持ってついてきて、自分のした悪いことを記録しながらあとを追ってくるような存在だと思っていたと言っていました。この日本の社会では、神を信じるということは、制約された世界の中に入っていくことと考えている人が多くいます。つまり、「〜してはならない」という多くの事柄を好んで受け入れるような人が、神を信じるのではないかと考えます。そして、そのような制約された世界の中に好んで入る人は、普通ではない人たちであると思っている人がいます。

キリスト教の経典である聖書は、神とは親のような存在であると教えています。それは、神は親心で私たちを見ているということです。実際、キリストが教えた「主の祈り」という祈りの出だしは『 天にまします我らの父よ』 という呼びかけで始まっています。親によって、子どもに対する態度は違ってきますが、良い親は子どもの自由意志を尊重します。「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがありますが、神も人の自由意志を尊重し、遠くで見守りながら、私たちを思っていてくださる存在です。

神を信じるとは、そのような存在を認めるということです。神を信じるとは、無いものをあるかのように信じることではありません。また、神を信じるとは厳しい戒律の中に自らを投じることでもありません。また、神を信じるとは自分で何も努力をしないで、何かの力に頼りたい人が気休めに拝むことでもありません。あなたのことを親心を持って見ておられる神を認めることを、神を信じるといいます。

親は、子どもがこのように生きてほしいという願いを持っています。それと同じように、神も私たちがこのように生きてほしいという願いを持っています。それが、聖書に出てくる教えです。それを守ろうとするか、無視しようとするかは、私たち人間の自由です。親が子どもに守ってほしいルールを教えるのは、子どもが幸せになってほしいからです。神も聖書を通して私たちに守ってほしいルールを語っているのは、人が幸せになってほしいからです。

企業研修でも、キリストの「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という教えが良く使われています。

聖書は、ストーリーの中で真理を語っている部分が多いく特に旧約聖書)ので、分厚い書物ですが、それほど多くの命令が書いてあるわけではありません。それから、その命令は、この世とはかけ離れた宗教的なことを語っているのではなく、この世の中で現実に通用することです。「通用する」とは、その人の本当の幸福のために通用するということであって、人の考える成功という認識とは必ずしも一致しないところもあります。しかし、聖書は物質やお金が悪だとか、成功や名声が悪だと言っているような書物ではありません。

ところで、普通の親なら、自分の子どもとのコミュニケーションを求めるものです。神も、人とのコミュニケーションを求めます。子どもがただ命令だけを文章として受け取って、会話がないような親子関係は普通はありません。「祈り」が神と人とのコミュニケーションに当たります。祈りは、実際には人の一方的な言葉ですが、親心を持っておられる神の思いを意識しながら言葉を発するので、コミュニケーションとして理解されています。

あなたは、対象が何か明確でないまま、何かに祈る時があるかもしれません。神は、ご自分がどのような存在か、あなたに知ってほしいと願っています。そのうえで、祈ってほしいと願っています。聖書は、祈りは神への賛美であり、感謝であり、願いを述べる時であると教えています。クリスチャンのあいだでも、よく言われていることですが、子どもの祈りがよく聞かれることがあります。子どもは修行したような宗教的な人ではなく、むしろその逆の存在とも言えます。人生経験も少ない者です。そのような子どもの祈りが聞かれることが多いのはなぜかというと、子どもが親に従1 頃なように、神に対して素直な心を持っことができるからです。子どもは素直に全能の神を賛美し、親心を持った神を信じ、自分の存在意義を自分の能力に置かず、神に置くことができます。

神は、あなたが親心を持った神を知ってほしいと願っています。そして、あなたとコミュニケーションを持ちたいと願っています。コミュニケーションを持つためには、まず、親心を持った神がいかなる存在かを、ある程度知る必要があります。ぜひ、教会においでください。そして、礼拝や、その他の集会などを通して、気軽に学んでいただきたいと願っています。

(大泉聖書教会牧師池田尚広)