《「あきらめ」と「受け入れ」》

最近は、「風水」がひとつのブームとなっていますので、人の意思を超えている何かの法則を信じている人が多くなっているかもしれません。良い方角だと教えられたものを選んだり、名前の良い字画とされるものを選ぶ方々がおられます。この方々 は、100 %そのように信じている方もおられると思いますが、そうでないかもしれないけれど、そうかもしれないので、いちおう従っておこうという方々 もおられると思います。人がこのようなことを考える背景は、この世の中には人間の意志を超えたことが起こることがあるからです。ある方は、ショッキングなことを経験したのちに運命論的になることもあります。運命論は、要するに「あきらめ」から生じています。その行き着くところは、人生が空しくなり、生きる気力を失い、すべては定まっているようにしかならないという思いに満たされることです。誰も、このような人は弱い人だと批判することはできません。私たちはまだその人が経験したようなショッキングなことを経験していないので運命論的になっていないだけなのかもしれません。

しかしながら理想としては、いつでも何かに向かって努力し、衝撃的なことがあっても、それを乗り越えたいというのが、すべての人の願いではないでしようか。よく、「あきらめ」と「受け入れ」は違うと言われます。あきらめた人は無気力になります。しかし、物事を受け入れた人は、その物事を糧とします。たとえば、ある人が生まれつき、身体的な不自由を抱えていたとします。「こんな不自由を抱えていて、どうせ自分はダメだ」と思うのが「あきらめ」です。「受け入れ」は、その不自由をひとつの自分のキャラクターとして理解します。そして、そのキャラクターを持った一人の人間として、自分のできることをやっていこうとします。そうすると、逆にその人だけが持っているものを発揮できることが多いのです。

以上のことは、生まれつきの身体的なハンディキャップに関する「受け入れ」であって、すべての困難な状況に対応する方法論とは言えませんが、困難な状況はいつか「受け入れ」が必要であるということは言えます。「あきらめ」は明日につながる積極的なものを生み出すことはできません。 「受け入れ」の具体的行為は、個々 の事例によって異なってきますが、起こった事実を認めるということと、今自分にできる最善のことをするということは共通しています。最善のことが、たとえば「悪」を法に基づいて処罰するということであるかもしれません。あるいは、最善のことが自分の怒りを捨てるということであるかもしれません。

この世の中にはいろいろなことが起きます。自然災害が降りかかることもあります。事件に巻き込まれることもあるかもしれません。自分が原因でない交通事故に遭う可能性もあります。そのような一方的に降りかかってくるものとは別に、自分の努力次第で変わることも多くあります。アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーは、次のように祈りました。「神よ。変えられないことを受け入れる平静さを、変えるべきことを変える勇気を、そしてその二つを区別する知恵を我らにお与えください」

変えられないことを受け入れるための土台というものがあります。それは、自分の持っているすべては神の恵みであるという理解です。あなたの命は神の恵みであり、神から一時的に預かっているものです。命をはじめ、能力、健康、その他すべてのものを、私たちは最後には神にお返ししなければなりません。ですから、そのような意識で人は生きるべきです。災害や事故などで、身体の一部の能力を失うこともあるかもしれませんが、それを運命のいたずらと呼ぶのではなく、神の恵みの一部を早くお返ししたと理解すべきです。他の人より自分は早く劣ってしまったと理解するのではなく、やがて他の人もすべての身体の機能を神にお返しする時が必ずくるわけですから、自分はたまたま早く身体の一部の機能をお返ししたと理解すべきです。自分の持っているすべては神の恵みであるという理解は、今起こっている自分の周りの現実を受け入れることを容易にします。なぜ、自分の住んでいた地域で地震が起こり、私はそれに遭遇したかという特定な理由があるのではなく、この世界がそもそも自然災害が起こりやすい世界だから起こったのです。この世界の現実を受け入れて、命をはじめ多くのものを神から預かっていることを認めて生きていっていただきたいと願っています。教会では、あなたのおいでお待ちしています。  (大泉聖書教会牧師池田尚広)