《こころの癒し(いやし)》

最近、はやりのことばに「いやし」があります。多くの人が疲れていて、いやしを求めています。からだも疲れていますが、精神的に疲れている人も多くいます。そのような状態の時に、甘いことばで近づいてきて、大金を要求するような者には注意しなければなりません。多くの方々は、注意する対象を「宗教」だけにしぼって考えていますが、自己啓発とか、科学的とか、最近の新しい研究成果などということばを使う人たちには注意が必要です。

キリスト教が伝えている「こころの癒し」について紹介させてください。キリスト教では、よく「罪」ということばを使います。キリスト教が伝えていることは、精神的疲れに対する特効薬ではなく、心の中の深い部分のいやしです。そして、その心の中の深い部分は、誰でも罪によって暗くなっていると聖書は指摘しています。その解決のために、人がすべきことは、何か特別なことをするとか、功徳を積むとか、自己犠牲的に生きるとか、そのような良い行いをせよというのではなく、ただ身代わりとなって罰を受けてくださったキリストを信じることによるというのが、キリスト教が2000年間伝えてきたことです。

不思議に思われるかもしれませんが、キリストの犠牲の力が2000年の時を超えて、人の罪責感や負い目や深層心理の中の怒りを癒してきました。キリストを信じることによって、精神的に開放された人は大勢います。悪事や犯罪は法によって正しく裁かれるべきですが、誰もが少なからず持っている罪責感や負い目は、神による癒しが必要です。

キリスト教が語っている罪とは、悪事や犯罪を意味するのではなく、神の標準から見て、ずれていることや、そのようなことを行うことや思うことを意味します。あるいは、神を無視することを意味します。神が聖書を通して「罪」を語るのは、人を追い詰めるためではありません。そこに人間の本当の問題があり、そこに光を当てることが問題の解決の道だからです。また、神は人間の本当の問題に解決を与えようとしておられる存在です。聖書の中に「神は愛です」ということばがあります。どのように神が人を愛したかというと、救世主(イエス・キリスト)をこの世に送ったということの中に神の愛が表されています。

神ということばからあなたが想像することは、どんなことでしょうか。あなたの立場は、神という存在はいないという立場でしょうか。あるいは、神とは後ろから自分の失敗や欠点をノートに記しながらついてくるような印象があるので、そんなものは信じたくないという思いを持っておられるでしょうか。あるいは、神とは存在ではなく観念であるという立場でしょうか。あるいは、神とは弱い者が信じるもので、神とは存在ではなく信仰形式(拝むという行為や、祈るという行為自体)のことであるという立場でしょうか。

いろいろな考え方があると思いますが、キリスト教の経典である聖書は、神とは、ある特定の存在であり、その神が人の魂を造ったと記しています。それは、聖書で「神は人をご自身のかたちに創造した」と表現されているからです。この「かたち」とは、英語の聖書で「イメージ」と訳されているように、人の外形ではなく、内面の奥深い部分のイメージのことです。英語の「良心」ということばは、コンシエンスと言いますが、言語学的に、「共に知る」という意味があります。「良心」とういことばの意味は、自分の他に、神が知っている部分という意味です。

人は皆、長く生きていればいるほど、この良心の部分にフタをしたり、あえて耳を貸さなくなっているところがあるものです。神が人に与えようとしている本当の癒しは、その部分の癒しです。深く心の中にしまってあるものを掘り起こすことはしたくないかもしれません。しかし、心理学の世界でも、深く心の中にしまわれているものを掘り起こすことから治療がはじまります。

教会には、教えたり指導したりする者として牧師がいますが、あなたの深い部分を牧師の前に告白しなさいということはしません。教会で行っていることは、まず、あなたが神と神の子(救世主であるキリスト)について詳細を聖書から知っていただき、それから自宅などで個人的に祈ることを勧めます。個人の深い部分についての祈りを、別の人の前で強制することはしません。

表にも書きましたが、神がこの世に与えた救世主(キリスト)の犠牲は、時を越えて、人の魂に働きます。自分ではそれほど気づいてはいないかもしれませんが、人はみな心の中の深い部分の癒しを必要としています。ぜひ、教会においでくださって、キリスト教が語る救いについて知っていただきたいと願っています。

    (大泉聖書教会牧師池田尚広)