《愛すること》

「愛」ということばは、30年ぐらいまえからよく人の名前にもつけられるようになったと思います。昔、キリスト教の宣教師たちが多く来た頃、宣教師たちが「神は愛です」と話すと、聞いていた人は顔を少し赤らめたと言われています。それはなぜかというと、「愛」ということばは、当時は男女関係のことばでしかなく、そして、そのことばが意味することは不純なイメージがあったので、宣教師が愛ということばを使うと、聞く人は、いやらしいイメージを持ったということです。

時代は変われば、ことばの持つ内容も変わります。現代では、「愛」は、英語でいう「ラブ」(LOVE)とほとんど同じ意味になった感じがします。ところで、聖書の中には愛ということばが多く使われていますが、新約聖書の中に次のようなことばがあります。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちにまっとうされるのです。」(Tヨハネ4:12)

昔、教会の者たちが路傍で子どもたちを教えていた時代がありました。娯楽もそれほど多くなかった頃ですから、子どもたちが多く集まりました。東京の、貧しい家庭が多かった地域で、教会の者たちがそのようなことをやっていた時に、次郎君という子が熱心に来ていたそうです。さきほどの聖書のことばを、子どもにも理解できるように説明するために、教会の者は次のように変えて語りました。「私たちは神を見ることはできないけれど、私たちが相手のためにほんの少し損をするなら、神はそこにおられるんだ。」次郎君は、そのことを聞いて家に帰りました。次郎君は5人兄弟の長男で、下は4人とも男の子だったそうです(次郎君は長男だけど、なぜか次郎という名前だった)。お父さんとお母さんは、当時ダンボールを集める仕事をしていて、夜遅くならないと家には帰らなかったということです。その時まで、下の子のめんどうを見るのが次郎君に役目で、お腹がすいた兄弟全員のために、ホットケーキを作るのも次郎君の役目でした。ホットケーキといっても、小麦粉に水と砂糖を混ぜたものをフライパンで焼いたものでしたが、それを兄弟で分ける時には、互いにけんか状態になったようです。

次郎君自身もお腹がすいていますから、自分の分け前は他の兄弟たちに配るものよりも少し大きく切って食べていました。そのような状態ですから、ホットケーキを分ける時はいつもけんかが絶えませんでした。しかし、先ほどの聖書のことばを聞いて帰ってきた次郎君は、自分のものを少し小さく取りました。最初のうちは、お兄ちゃんは何かの策略を考えているという感じで、他の兄弟たちは見ていましたが、それが何日も続いたある日、次郎君の下の弟が次郎君に次のように言いました。「お兄ちゃんのものは小さいから、ぼくのものを少しあげるよ」と言って、自分のホットケーキを少し切って次郎君の皿の中に入れました。それを見ていたその下の弟も次郎君に同じことをしました。そして、四男も同じようにして、五男のチビも同じようにしました。その時、5人全員の目に少し涙が溢れていたそうです。

現代は愛ということばは語られても、愛するとはどういうことかはあまり語られない時代です。愛するとは何かを定義すれば、さまざまな定義が可能だと思います。その一つに、愛するとは少し損をすることという定義が成り立つのではないでしょうか。ある方は、多く損をすることのほうが良い行為だと思うかもしれませんが、多く損をする側は見返りを期待することがほとんどです。また、多くの損をしてもらう側にとっても普通は気持ちいいものではありません。人によっては、相手に多くの損をしてもらうことによって、どんどん自己中心的になっていく人もいるかもしれません。子どもなら、わがままに育つかもしれません(例外として、幼児は親に多くの犠牲を払ってもらわなければならない存在です)。

キリストの12弟子の1人のヨハネは、愛ということばを聖書の中に多く残しました。表ページの内容だけなら、単なる博愛精神を語っていると理解されるかもしれませんが、ヨハネは別の箇所で次のように言っています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神(イエス・キリスト)が、神を解き明かされたのである」(ヨハネ1:18)

愛が神なのではなく、神が愛であり、愛は神から出ています。イエス・キリストを通して、人は神を知り、真の意味で愛するとは何かを知ります。教会に来る者はみんな立派な者ではなく、神を求める者です。ぜひ、教会においでください。おいでをお待ちしています。
(大泉聖書教会牧師池田尚広)