《ルールを必要とする私たち》

 国立国会図書館の受付カウンターの上には、日本語とギリシャ語で「真理はあなたがたを自由にする」という聖書のことばが掲げられています。万有引力の法則を発見したニュートンは「いかなる世俗の歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理がある」と語りました。「真理」とは、世界を貫いているルールということができると思います。その世界を貫いているルールを探して、人は学び、修行し、先人の悟ったものを知ろうとします。そのようなルールがどこかに本当にあると信じる人もいますし、そのようなものはないが人生とは死ぬまでそのようなものを探すことに意味があるとする人もいます。

 20年前ぐらいから危険なカルト宗教が私たちの社会に悪影響を及ぼしてきました。その時から多くの方々が、宗教的な事柄に関心を持つことや真理を求めるというような態度に警戒感を持つようになったのではないでしょうか。そして、真理と言われる特定のものを受け入れるのではなく、世界の中にある真理らしきものを自分で集めることに意義があると多くの人が思うようになったような気がします。しかし、よく調べてみますと、「オウム」にしろ、「幸福の科学」にしろ、教祖が自分の考える真理らしきものを集めて自分で体系化したものです。危険なのは、すでにあった宗教ではなく、人が真理らしきいろいろなものを自分なりに集めてきて体系化することなのです。ですから、むしろぜひ、昔から真理と言われてきたものに耳を傾けていただきたいと思います。

 ところで、「真理はあなたがたを自由にする」という聖書のことばですが、その真理とは神のことばを指していて、聖書に記されていることばそのものを指しています。一見、聖書は多くの規則や道徳が書かれているように思われがちです。しかし、聖書は人を本当に自由にするために書かれています。人間を本当に縛っているのは、世間体だったり、悪習間だったり、自己中心性だったりするのです。聖書は、それを指摘するともに、解決策をも示しています。道徳の本は世の中に多く出ていて、問題を指摘することばも溢れています。しかし、具体的な解決策はそれほど多く示されているわけではありません。

 聖書の中に、「神は愛です」ということばがあります。その内容は、神は人を愛するという意味ですが、当然、愛するとは人をわがままにするという意味ではありません。最近は犬を飼っている方も多いですが、わがままにされた犬も目だってきました。犬を愛するとは犬をわがままにすることではないと同じように、神が人を愛するということも、人をわがままにさせることではありません。聖書の中にルールが書かれているのは、神が人をわがままにさせたくはないからです。また、人を惨めにさせたくはないからです。「わがまま」を「自由」と考える風潮がありますが、本当の自由は自己責任から始まるものです。自由は、自分のことは自分で責任を持ちますというところから始まります。また、責任ある行動は確かなルールを持っていることが前提となります。確かなルール(真理)を持っていなければ、責任ある行動は取れないはずです。神は人を愛するので、人が確かなルールを知って本当の自由を持ってほしいと願っています。神が人に願っている第一のルールは神の存在を認めて、神との関係を回復することです。

 「主(神)に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(旧約聖書イザヤ書55:7)
聖書において、ご自分を現している神は、外国の神ではなく、あなたを知っておられる神です。あなたが今、どのような状況であるのか、あなたは本当に自由であるかを神はご存知です。ですから、あなたにとっては初めて知る神かもしれませんが、神から見れば「帰れ」ということばが使われる関係で、あなたを見ておられます。

 その次に神が人に求めるルールは、人が祈りを込めて神のことばを糧として生きることです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(新約聖書マタイ4:4)
参考程度にということではなく、神との関係をまず持ってから、心から神のことばを真理として受け入れて生きることです。聖書のことばは、生きる目的から、人が大切にするべきものの順序、人間関係の持ち方、祈り方、時間の正しい使い方、自分の心のコントロールの仕方、試練に対する対処法、過去の罪の赦し、天への希望の持ち方、さまざまな事柄について書かれています。
 ぜひ、教会においでください。個人的な学びを希望される方はご連絡ください。
                                    (大泉聖書教会牧師池田尚広)