《危機に直面して》

 人生について考えたり、宗教的な本を読んだりするきっかけは、危機に直面した時がいちばん多いのではないでしょうか。日本人の場合は、誰かが神を信じたと聞くと、何かたいへんなことでもあったのかしらと想像することが多くあるようです。つまり宗教とは、ものすごく窮地にある者が持つものと思う傾向が強いと思われます。諸外国の場合は、日本人に比べて宗教生活が身近にあったり、特に危機に直面しなくても、神は自然に祈る対象だったりする場合が多いのではないでしょうか。

 医師をしておられる、ある日本人の方の話ですが、この方も危機に直面してから神を信じました。その方のことを以下に記します。
「総合病院の院長を務め、順風満帆の毎日を送っていたAさんに人生の危機が突然襲ったのは、45歳の時でした。それまでAさんは、健康にも恵まれ、わが人生行路は幸多く、努力すれば必ず報われると自信満々で、ただ自分の力と知識と経験のみに頼って生きてきたそうです。ところが、突然襲ってきたものは、思いもかけない交通事故の加害者という悲運でした。飲酒運転による出来事で弁解のできない状況で、事件は大々的に新聞で報じられ、生まれて初めて、屈辱と自己嫌悪の日々を送ることになったのです。

 その夫の苦しむ姿を見た夫人が、ある日、そっとまくら元に一冊の聖書を置きました。以前のAさんなら『人は体が弱く、知識が乏しいから宗教に走るのだ』と夫人を軽蔑して聖書を投げ捨てたかもしれません。けれど、人生の危機の中で、ためらいつつ聖書をそっと手にし、病院の一室で静かに読み始めたのです。それが人生の扉を開くことになりました。『健康な人には医者はいらない。いるのは病人です。私が来たのは義人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである』― 聖書の中のこのイエス・キリストのことばを発見した時、Aさんは何かに向かって大声で罪の赦しを請わねばならないように感じ、聖書を読んでは涙しました。心は聖書の偉大なメッセージに触れ、百八十度の大きな転換を始めたのです。水たまりしか見たことのない人が、初めて大きな海を見たように、今まで自分の考えのみに頼っていたことがいかに愚かであったかと思ったそうです。
 そして、この宇宙を創造された無限の力に、全知全能の神をはっきりと知らされ、『私は私を創造された神を忘れ、あたかも自分が世界の中心であるような勝手な道を歩んでいました。』と言いました。聖書の真理とは、宇宙で最も破壊的な事実が人間の罪であり、この罪から人間を救うために、イエス・キリストが十字架にかかられたということであるとAさんは知りました。なぜ、キリスト教会が十字架をシンボルとして掲げているのか、その疑問の答えがそこにあることを知りました。」
〔「続・生きる勇気がわいてくる」(クリスチャン新聞編)より引用〕

 特に、日本人の男性に多いのかもしれませんが、死んでも「神様」と呼ぶようなことはしないという人がおられます。自分が精神的に限界状態で、心身に問題を抱えかねないようになっても、神様に頼ることを敗北と考える人もおられます。神を信じることが、人生をあきらめるような、人間としての資格を放棄するようなことと思っておられる方人もおられます。
 ところで、危機があることは悪いことだと伝える宗教がありますが、決してそうではありません。神は私たちが真理に目を留め、人とは何ものなのかを知らせるために神は危機を与えることがあります。なぜ、時として神はそのようにされるかというと、神と私たち一人一人はすでに関係があるからです。元来無関係であれば、そのようなことはありません。しかし、神と無関係な人などこの世に一人も存在していません。聖書が語っている人間の罪とは、私たちを存在させ、個々の性格や能力を与えた神を無視することを言います。

 人は特定の親から生まれてきますが、親は命を作るのではなく、命や体質を伝達する存在にすぎません。あなたは、神が「お前と私は関係があるのだ」とおっしゃったら、どう思われるでしょうか。やっかいなことと思われるでしょうか。それとも、なにか嬉しい思いを抱くでしょうか。「神の愛」とは、いいことがあるとか、危機に会わないとか、そのようなことで現されるのではなく、「あなたと私は関係がある」ということの中に現されています。やがて私たちはみんな、すべての立場との関係、他の人との関係を絶つこととなります。ひとりぼっちになっても、あなたを造り、この世に存在させた神との関係は切れることはありません。神はあなたが帰ってくるのを待っておられます。キリストの犠牲は、私たちの罪が贖われ、神との関係を回復するためにありました。Aさんのように心を低くするには自分との戦いもあるかもしれませんが、関係の回復を求めておられる神の前に来ていただきたいと切に願っています。
(大泉聖書教会牧師池田尚広)