《健全なプライド》

生きていくうえでプライドは必要です。その人の職業はどうであれ、立場はどうであれ、人間としてのプライドを失ったら生きる力をなくしてしまいます。
たとえ格好をつけなくても、美しく装わなくても、存在としての自分の価値を見出していることができたらすばらしいことです。
でも、人はみんな、誰か他の者との関係の中で生きている存在ですから、自分で「自分は価値があるんだ」と強く思ってみても、喜ばしい感情は湧いてくるものではありません。人は誰か他の身近な存在に受け入れられてはじめて、自分の価値を認識できるようになるものです。存在としてのプライドも、他の存在との関係から切り離されているものではありません。私たち一人ひとりを、意図をもって存在させた方(神)を信じるなら、神との関係から健全なプライドを持つことができます。

私たち日本人は、人の立場や役職や所属にその人の存在価値を置いている人が多いように思います。この点については、無宗教という世界観が大きく作用しているような気がします。ほとんどの人が無宗教であるわけですから、人と人の関係しか存在しません。ですから、周りの人がうらやむような立場が良い立場であり、大勢の人が属している立場が普通の立場であり、周りの人と比較して劣っている立場が悪い立場ということになります。人と人との関係以外にないなら、世間の評価がすべてということになります。また、そのような生き方をしているなら、優越感と劣等感のあいだで行ったり来たりという状態になってしまいます。宗教の中には、周りの人との比較による価値観から生み出されたものもありますが、その価値観から生み出された以上、根本的な解決にはなりません。つまり、多くの所有や良い立場を約束する宗教は、他の人との比較という価値観から生み出されたものですから、存在としてのプライドを与えるようなものではありません。

隣の韓国は30%以上のクリスチャン人口があります。また真剣な仏教徒も多いそうです。中国は共産主義下で無宗教を強要されましたが、今は10%ぐらいのクリスチャンがいるとも言われています。世界的にみて、無宗教は決して一般的なことではありません。

存在としてのプライドは、自分を偶然の産物とする考えからは出てきません。あなたという存在には、神の意図があります。たとえ、あなたの出生が不遇に思えたとしても、あなたの存在には神の意図があります。ぜひ、その神について知っていただきたいと願っています。おいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会 牧師池田尚広)