《「世界でひとつだけの花」》

 ミッションスクールの玉川聖学院という学校のM先生は、その学校の中学と高校で教えているということですが、次のようなことを講演で言っていました。その学校では、年に3日ぐらいかけて、特別擁護老人ホームで生徒たちに奉仕を経験させるそうです。そうすると、生徒たちが明らかに変わってくるのがわかるということです。みんなが命の大切さを学び、自分の命の大切さもわかってくるようです。ですから、はじめは強制的に見えても、このような体験を生徒にさせることは有効なようです。

 ところで、このような周りの人との接触を通して学ぶことの他に、観念的な意味で自分の価値ということを学ぶことも必要です。スマップの歌った「世界でひとつだけの花」は、多くの人たちに愛されている曲です。「・・・そうさ、ぼくらは世界でひとつだけの花、ひとりひとり違う種を持つ。その花を咲かせることだけに、一生懸命になればいい」 この歌を作ったのは、牧原さんという方ですが、最近テレビでも出ている新垣勉さんという全盲の歌手が、これと同じことを多くの学校やホールで語ってこられました。この方は、不幸な青少年の時代を経験されましたが、ある時に教会に行き、神の前での自分の価値や神の救いを信じ、受け入れました。生まれつきの全盲というハンデの中で、神の前での自分の意味に感謝し、そのことを語っています。

さきほどの玉川聖学院のM先生のことに戻りますが、先生は現代の多くの生徒たちが自分の価値ということに本当に悩んでいると言っていました。親の価値観や周りの価値観では、ほとんど学歴や立場や順位というひとつの尺度で人を計っていることから、自分の価値もそれによって計ってしまい、生きてゆく価値を失っている青少年が多いということでした。

人生の中で、ある程度年を取れば、子どもの成長のため、親の面倒をみるためなど、現実的な生きる目的ができてきます。生きる意味など特に考えなくても、そのことが生きる意味となります。青少年が自分の生きる価値ということを自分の中だけで考えていることに対して、現実を知らない幼い者たちと評する人もいるかもしれません。

しかし、見方を変えてみれば、彼らの方が純粋に生きる意味を考えているともいえます。子どもの養育のためとか、親の面倒をみるためとか、そのようなことは誰でも経験する普遍的なことではありません。一生、独身で過ごす人もいます。ですから、そのようなことは二次的・三次的なことで、多くの大人はそれを生きる意味としているといえるのではないでしょうか。

オウム真理教が社会問題を起こしていたとき、新聞の投書には、なぜ彼らは宗教に走るのかという原因と思われるものを語っているのがいくつかありました。その中で、若者たちが自分で探求しないで、安易に何かに頼るようになっているというのがありました。私はむしろ、彼らは探求している部類の人たちだったと思います。探求するには、いったん特定のものをやってみなければならないところがありますから、やっているうちに悪い思想に洗脳されていったというのが正確な解釈だと思っています。

周りの世界が、二次的、三次的なものを示すのではなく、青少年たちが求めている一次的なものを示すようになっていく必要があります。昔は、青少年の年代の人も現実として生きていくのに精一杯で、とにかく生きていくということ自体が生きる意味となっていた時代がありました。しかし、今はそのような時代ではありません。ある意味では、本当に一次的なものが求められている時代です。子どもを持つ親自身が、比較による価値観から離れて、絶対的な意味での自分の価値というものを伝えていって欲しいと願っています。そのためにも、あなたに意味を持たせている神について、知っていただきたいと願っています。ぜひ、教会においでください。

 (大泉聖書教会牧師池田尚広)