《永遠の時》

「確かに、神は人を一日しか生きられない存在として造られたのではない。そう、人は永遠に生きる存在として造られたのだ」(アブラハム・リンカーン)

 人は永遠について考えるものです。それは、弱い人とか強い人とか区別なく、人は時として永遠の先について思いを巡らすことがあります。この理由として、人間が高度な生き物だからという理由を考える人もいますが、聖書は神が人間を永遠を思う存在として造られたからだと記しています。児童文学者であり、オックスフォードの中世英文学教授だったCS・ルイスは、『ナルニア国物語』の最後の部分で、永遠の概念について次のように記しています。

「この物語はおしまいなのですが、・・・しかし彼らにとって、物語はまだほんの緒のついたばかりです。この世界における彼らの人生はすべて、・・・カバーページや表題に過ぎません。そして今、ついに彼らの偉大な物語の第一章が始まろうとしているのです。この話の続きを読んだことのある人は地上にはいません。この話に結末はありません。そして、すべての章は前の章より良くなっていくのです。」

 多くの偉人が、永遠の世界のことをまじめに表現しています。それは現実逃避でもなく、むしろ現実を価値あるものとするために、永遠の世界を表現しています。

つまり、それは現実を価値あるものとするために「死」について考えることでもあります。

 淀川キリスト教病院のホスピス長だった柏木哲夫医師は、死を迎える人たちを看てきました。著書の中で、柏木医師はその人たちの心の状態を次のように記しています。

「(死がまじかに迫っている人たちは)死そのものはそれほど恐れていないということです。人々が恐れているのは、どんな死にかたをするのかということと、死んだ後どうなるのかということの二つです。」

どんな死にかたをするのかということは、痛みにさいなまれて死ぬのはいやだとか、そのようなことです。これは痛みをなくする薬などでなんとかなるそうです。しかし、「死んだ後、私はどうなるのでしょう」という問いについては、医学的な解決を施すことはできません。多くの人たちがこのように問い掛けるということは、本当に永遠の世界があるのではないでしょうか。

あなたの死生観はどのようなものでしょうか。若い時から将来現実として起こる死を真正面から見つめたほうが益となります。限られた生を大切にするでしょうし、価値観を見える物よりは、見えないものに置くようになります。

私たちの社会では、現実の生活から永遠とか死などというものが排除されています。宗教は死を迎える人や弱い人のためにあり、現実生活の勝者は宗教とは無縁であると多くの人が思っています。

アメリカの実業家ロックフェラーは、ひじょうに宗教的でもありました。聖書の原則に従って、得るものの10分の1は神に捧げました。その資金によって、日本にも多くの宣教師が送られてきました。多く所有する者は楽にそのようなことができると思われる方もおられるかもしれませんが、多く所有されている方はわかると思います。所有すれば所有するほど、持っているものを出すことは身を削るぐらいに難しいのです。聖書は、見えるものが見えないものからできたことを伝えています。つまり、現実の見えるものの背後には見えない永遠のものがあるということです。言い方を変えれば、永遠や真理や真実という神の法則が、ひじょうに現実的なこと(ビジネスの世界など)の奥にもあるということです。最近は、企業倫理というようなことも問われている時代です。一度、信用を失うなら莫大な損失を招くということも理解されだしました。今までのように、現実のことと、永遠のことを別けて考える時代が終わったことを示しているのではないでしょうか。

このようなことをみてきますと、もし永遠の先の世界があるなら、その世界に受け入れられるのは、ひじょうに厳しいことのようにも感じられます。聖書は確かに、「人間には一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まっている」とも語ります。しかし、「キリスト・イエスにある者が、(神から)罪に定められることは決してありません」とも語っています。CS・ルイスは、「この世には二種類の人々がいる。神に対して『あなたのご計画が成りますように』という人と、神の方から『分かった。それなら勝手にしなさい』と言われる人である」と言っています。大切なことは、赦してくださる神を信じることです。救い主キリストは、犠牲となるためにこの世におくられた神の子であると聖書は記しています。

ぜひ、教会においでください。永遠の事柄は、この世界の中の特殊な事柄ではなく、普通の事柄です。神が示しておられる永遠のことについて学びましょう。おいでをお待ちしています。  (大泉聖書教会牧師池田尚広)