《意味を問うこと》

人間は意味を問う生き物です。存在の意味の確認は人間にとって大きな課題です。ロシアの小説家アンドレイ・ビトフは無神論の共産主義統治下で成長しました。それは、ある陰鬱な日のことでした。ビトフは自分の経験を次のように記しています。

「当時27歳だった私は、レニングラード(現在のセント・ピーターズバーグ)で地下鉄に乗っていましたが、失望があまりにひどく、何かに押しつぶされそうで、人生が突然止まってしまったかのように感じていました。将来なんてあってないようなものだし、人生に何の意味も見出せないでいたのです。すると突然、何の前ぶれもなく、『神がおられないなら人生には何の意味もない』というフレーズが現われたのです。驚きながら、そのフレーズを何度も頭の中で繰り返しているうちに、私はその言葉に乗ってあたかもエスカレーターを上っていくかのように、地下鉄を出て光の中に向かって歩き出したのです」(David Friend, ed., “The Meaning of Life” p.194より)

すべての現象(人間の内面も含む)は、物と物の関係によって起こっている現象であると徹底的に教えられたからこそ、27歳のビトフの憂鬱があったのだと思います。生きていて良かったと思えるようなことは、誰でも多少なりとも経験しながら生きているものですが、なぜ生きなければならないかという積極的理由については、どこの社会でもそれほど語られているわけではありません。

 最近は、自己啓発の本も多く出版されています。その中で、人生の目的を発見するためのステップのようなものが紹介されることがあります。たとえば、「自分の夢について考える」、「価値観を明確にする」、「いくつかの目標を設定する」、「自分がどんなことが得意か考える」、「高い目標を掲げる」、「とにかくやってみる」、「自己鍛錬する」、「目標を達成できると信じる」、「人の協力を仰ぐ」、「あきらめない」等々のことが書かれることが多いようです。上記のことを忠実に実行し、成功を収めることもあることでしょう。しかし、成功することと、人はなぜ生きなければならないかということは関係がありません。その意味で、上のようなことが書かれている自己啓発の言葉と、人が生きる意味とは関係がありません。

リック・ウォレンというアメリカの牧師はその著書の中で次のように言っています。「自分の内側をいくら見つめてみたところで、人生の目的を発見することはできません。あなたは自分で自分を造ったわけではありませんから、自分は何のために造られたのか、分からないのは当然です。」

英語では、「生まれる」という表現を受動態で表現します(「生まれさせられる」と表現します)。実際、誰も生まれようと思って生まれてきたわけではありませんから、英語の表現のほうが論理的に思われます。ビトフが「神がおられないなら人生には何の意味もない」と繰り返し心の中で語って喜びに満たされたのは、自分に意味を最初から与えた方がおられるということを認めたからではないでしょうか。人の存在に意味を与えるのは、その人の親ではありません。親の愛情は、子どもが自分の意味を感じる大きな原因ですが、いつか親が存在しなくなったときは愛情を与えることはできないわけですから、親の愛情は人の意味を与える絶対的なものではありません。

「子どもを作る」という表現がありますが、生殖は命を伝達させる行為です。人は命を作ることはできません。人は男女の生殖行為の結果として生まれますが、必ず生まれるというわけではなく、子どもが与えられる人もあり、与えられない人もあります。確かに、先進国では避妊や晩婚によって出生率が低くなっている現象がありますが、結果的に先進国で少ない人数の子どもが生まれるということも神が許可されていることと見ることができます。

あなたは神によって特定の時代に、特定の国に、特定の両親のもとに、特定の環境のもとに生まれさせられました。同じ両親のもとに生まれた兄弟姉妹でも、能力が違い、性格が違い、顔が違います。生まれた時の環境や個性について、人は受け入れなければなりません。それを否定し続けるなら、自分を否定することとなります。そこには、人と比較して劣っていることもあるかもしれませんが、人と比較して劣っていることや優れていることを通して、人は存在の意味を知るわけではありません。聖書の中に、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(新約聖書ルカの福音書1248後半)という言葉があります。多い少ないは神が決定することで、人は与えられた程度に応じて、神に栄光をお返しする使命があります。

あなたの意味は神がお持ちです。そして、それぞれの人に共通の神の期待と、一人一人に違った神の期待があります。具体的にそれらについて知るために、ぜひ聖書をお読みください。また、正しく聖書を学ぶために教会においでください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

      (大泉聖書教会牧師池田尚広)