《「どうして祈る必要があるのですか」》

「どうして祈る必要があるのですか」と、聖書を少しだけ知っている人が質問しました。この方は次のように言いました。

「私はキリスト教に関心を持っていますが、疑問に思っていることがあります。少しひねくれた質問かもしれませんが、クリスチャンはどうして祈るのかということです。聖書の中に、『神は祈る前から私たちの必要なことをご存知である』と書かれた箇所があったと思いますが、それなら、どうして祈る必要があるのでしょうか。また、『(神の)御心(みこころ)を祈りなさい』と言われますが、神さまの御心がわかっていれば祈ることもできますが、わからない時はどう祈ればいいのでしょうか? ただ「御心がなりますように」とだけ祈っていればいいのですか。神さまの御心しかならないのなら、なぜ祈るのかよくわからなくなってきます。」

(「悩んでいないで聞いてみたら」(いのちのことば社)P.37より

イエス・キリストは新約聖書マタイの福音書6章のところで、呪文のような同じ言葉の繰り返しが何かの世界に影響を与えて、欲しい物が手に入れられるという考えを否定されました。なぜなら、神はすでに私たちの心の中にあることをご存知であり、心の中にあることをいっしょうけんめい伝えなければ伝わらない存在ではないからです。

それでも、聖書の中には「祈りなさい」ということばがあります。また、熱心に神にお願いすることを、神は叶えてくださるということを言わんとして、イエス・キリストは譬え話をされたことがありました。神は人間の親のような存在で、子どもが欲しいものを親がちょうど良いと思う時に与えるのと同じだということも語られました。

以上のことを総合してみますと、運がいいとか悪いとかそのような世界を、人が呪文のようなことばで操れるということをイエス・キリストは否定されました。しかし、私たちの心の中をすべて見ておられる神さまは、真実な祈りや真心からの熱心な祈りを求めておられるということも事実であるとイエス・キリストは語られました。真実な祈りとは、いわゆる立派なことばで祈られることばというよりは、子どものように素直な祈りであると聖書の中から知ることができます。実際、子どもが祈る祈りは、聞かれることが多いのです。

この世界は、人の努力や意思を超えていることも多くあります。人が年をとって、やがて迎える死や、自然災害などがそれに当たります。しかし、すべてのことが細部まで定まっているわけではありません。神は努力する者が報われる範囲や、正しく賢く生きる者が報われる範囲も定めておられます。それとともに、神に素直に正しい心で呼びかける者の祈りを、神は叶えてあげる範囲を定めておられます。

人によって、祈る対象を自分個人のことに限定するのは自分勝手だと思われる方もおられます。ある意味では正しいことですが、しかし、神は自分の求めるものを素直に神の前に出すことを求めておられます。親が子どもの素直な気持ちを聞きたいのと同じです。ただ、神がすぐにその祈りを叶えてくださるかどうかは別問題です。親が子どもの願いにすぐに応えないことがあるのと同じです。

人は自分の思いや願いを素直に表現する対象を求めているのではないでしょうか。そのことを通して、人は自分の中で気づいていなかったものを知ることもできます。誰でも自分自身を受け止めてくれる別の人を求めていると思いますが、そのような人はいつでもいるとは限りません。また、別の人が正しく受け止めてくれることは、むしろ稀です。神に対する祈りや願いを幼児性と関連させて考える人もいますが、真の祈りは健全性と成熟の証でもあります。真の祈りは、神に対する畏れ(おそれ)が根底にあります。また、真の祈りをする人は、寄りかかる別の人を絶えず探すことはありません。特にアジアによく見られる現象のようですが、絶えず携帯電話で話したり、メールをやっていないと落ち着かないという人たちが増えてきています。神に対する真の祈りは、人に寄りかかる行為から自由にします。

人はどのような状態が最善の状態かわからないこともあります。そのような時には、「神の御心がなりますように」と祈ることを神は勧めておられます。この祈りは、何が最善なことかわからない時や、将来のことでまだわからないことがあるときなどに祈る内容として語られたものです。

祈りについて、疑問に思うことや、聞きたいことがある方は、ぜひ、ご連絡ください。また、ぜひ教会においでくださって、祈りについて学んでいただきたいと願っています。教会では、あなたのおいでをお待ちしています。

      (大泉聖書教会牧師池田尚広)