《境界線》

 「あなたは、それをすることができる」(You can do it.)
ある国に住む外国人は、この言葉をよく口にします。スポーツの世界だけではなく、日常生活のちょっとした行動に至るまで、このような言葉を口にします。人間の可能性を絶対視しているようにも見えますが、それでいて、神の存在を信じている人が日本人よりもはるかに多いというのは、我々日本人としては奇異に映ることかもしれません。

これは、いわゆる境界線(boundary)がその人たちの思考の中にあるからです。ここまでは人間ができることで、それ以上は人間が不可能なことという線がはっきりしているからだと考えられます。

世界中どこの人でも、精神的に不安を抱えている人はいますが、私たち日本人は特に精神的に不安を抱えている人が多いように思います。それは、ここまでが人間ができることで、それ以上は不可能という境界線がはっきりしていないからです。10年先、20年先のことを心配しても仕方がありません。そのことは誰でもわかっていることですが、その分野のことをお任せする存在を持っているかどうかで生き方が変わってきます。

 多くの日本人は、「お任せする」とか、「ゆだねる」とか、そのような言葉を嫌います。そして、どんなことでも、自分でとことんまでがんばるべきだと考えます。しかし、際限がないので精神的にまいってしまうことがあるのではないでしょうか。

 私たちの社会は、普段の会話の中に「死」という言葉が出てくることを忌み嫌います。それは、死に関することは、人間がどんなにがんばっても不可能なことがあるからです。

 不可能なことを認めることで、敗北したような思いを持つ方もおられるかもしれませんが、そうすることで逆に、可能性のある事柄の中に自信をもって集中することもできるのではないでしょうか。

イエス・キリストは次のように語りました。

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰(神への信頼)の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

(新約聖書マタイの福音書6:27〜34)

 このメッセージの中に「神の国とその義を求める」という言葉がありますが、その内容を簡単に表現すれば、天地を造られた全能の神に信頼し従うということです。神は、私たちの罪を贖うために救い(イエス・キリスト)をこの世に遣わされた方ですから、憐れみ深く情け深い神です。ぜひ、その神について知っていただきたく願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。(大泉聖書教会牧師 池田尚広)