《親に求められるもの》

学校の先生で尊敬される人は、厳しさと優しさを備えた先生だと思います。厳しさといっても、単に恐いということではなく、筋の通ったものを持っていて、その筋の通ったやり方によって子どもたちを公平に扱うことができる厳しさだと思います。筋の通ったものを持つということは、学校の先生よりも先に、子どもを持つ親が求められていることでもあります。先生で、単に優しいだけの先生が尊敬されないように、親でも単に優しいだけの親は、子どもに尊敬されないばかりか、ある時にはバカにされることもあります。「おまえには、欲しいものを買ってやったじゃないか」と言っても、それは尊敬を勝ち取るものとはなりません。子どもが大人になって、自分の必要のために苦労してくれたことを感謝する時もあるかもしれませんが、物を与えることは深い尊敬とは結びつきません。尊敬と結びつくのは「生き方」です。なにも、親は子どもから尊敬されるために生きているわけではありませんが、子どもが筋の通ったものを親に対して求めているので、親は子どもに示すことができる生き方を持つことは必要です

聖書の中に、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種をまけば、その刈り取りすることになります」(*1)ということばがあります。それは、悪いことをしたなら、必ずそのツケを払わなければならないということと、そのようにさせるのが神であり、神を恐れなければならないという意味です。

あなたは倫理をどのようにお子さんに教えておられるでしょうか。たとえば、嘘をつくと閻魔様(えんまさま)に舌を抜かれるなどと、教えておられる方もおられるかもしれません。しかし、確信を持って教えるためには、親自身も本当にそのように信じていなければなりません。子どもは鋭いですから、親自身が信じているかどうかを見抜きます。信じていないことを言っても効果はありません。

先月号で、昔の人が子どもをしつける時に使った「おてんとう様に恥ずかしくないように」というような倫理に代わるものが必要ですということを書きました。昔の人は、ある程度の信仰をもってそのことばを使っていたと思います。しかし、現代においては信仰をもって太陽を本当に拝んでいる人は少ないのではないでしょうか。確信を持って語るには、親自身が信じきっているものでなければなりません。そして、信じているものが結果的に正しくなくてはいけません。

あなたは今までにいろいろな考え方に触れてこられたかもしれません。また、いろいろな考えを持っている人が、あなたに対して、これは絶対間違いないものだとあなたに勧めてきたようなこともあったかもしれません。「間違いかもしれないけれど私は信じている」という人はいないわけで、誰でも何かを信じているなら、まともに信じているはずです。この世界は、何かをまともに信じている人と、絶対的なものはないと割り切っている人とに、分類できると思います。そして、日本の社会は絶対的なものを持たないことが自由な発想を生むと信じている人が多くいる社会です。しかし、その生き方が結果的に子どものしつけにも現れてきますから、親は子どもに生き方を示せないので、子どもに軽くみられる傾向にあるように見えます。

 聖書の中に、「あなたの父と母を敬え」(*2)という命令があります。これは十戒といわれる10の大切な戒めの中の一つの命令で、大昔からキリスト教会に来ている子どもたちは、何度も暗唱させられてきたものです。極端なはなし、たとえ親が尊敬に値するものが何もないとしても、自分の親として敬意を払おうとする姿勢が必要です。10の大切な命令の中に、この教えが入っているということは、その意味が含まれていると理解できます。欧米のキリスト教会は、その国の社会の中での影響力が小さくなったとはいえ、少しはその教えが生きているように思えます。個人主義が欧米から入ってきて、日本が悪くなったと言い切ることはできません。この現代社会で、親を敬わず、学校の教師にも敬意を払わずに言いたい放題を言い、組織の中のリーダーを敬おうとしないのは、日本がダントツかもしれません。元を正せば、親が子どもに生き方を示せないことが原因です。たとえ、親が何かの生き方を持っていたとしても、その生き方は倫理的なものでなくてはいけませんし、親自身が信じきっているものでなければなりません。

 人が何かの考えを本当に信じるには、ある程度の時間が必要なものです。ぜひ、教会においでくださり、さまざまな角度からキリスト教会の教えについて学んでいただきたいと思います。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)

(*1)新約聖書ガラテヤ人への手紙6:7

(*2)旧約聖書出エジプト記20:12