《存在を受け入れる神》

 誰でも、自分の存在そのものを大切にしてほしいという願いがあると思います。何をすることができるとか、外見や過去がどうだとか、そのような理由ではなく、自分の存在そのものを大切にしてほしいと誰でも願っていると思います。子どもの頃は、その人の親から存在そのものを大切にされる体験をして、大人になってから今度は、その人が他の人に対してそのことを実行するというのが、健全な社会だと思います。しかし、親自身もある部分では不満を抱えながら子どもを育てていますから、子どもに十分に愛情を与えてあげたと言える人は、それほどいないのではないでしょうか。また、愛情を与えることと、物を与えることは違いますし、自分の子どもが周りの子どもが持っている物を必ず持つように気を配ることと、本当にその子の存在を大切にすることは違います。また、叱らないことが存在を大切にしていることでもありません。

 子どもの存在を大切にしている行為の一例としてよく言われていることは、子どもが言っていることを子どもの目線でよく聞いてあげることであるということがあります。

 しかし、人の言っていることに真剣に耳を傾けるということは疲れることです。まして、時として支離滅裂なことを言う子どもの主張に耳を傾け、理解をすることはもっとも疲れることかもしれません。さらに、夫婦のあいだも、相手に自分の思いを十分に受け止めてもらっていない場合、そのような状況で子どもの思いを受け止めるということはひじょうに困難なことになります。

 ある意味で、人間の真価は自分が孤独な時にも大切にすべき人を大切にできるかで判断できるかもしれません。イライラしている思いを、弱い子どもにぶつけるようなことは、誰もがしたくはないはずです。

 善良な思いを持っている普通の人であるならば、弱い子どもに八つ当たりする自分を悲しく思うはずです。そこで大切なことは、そのような自分をさらに厳しい環境に追い込むことではありません。たとえば、朝早く起きて、良い決意の言葉を何度も告白するようなことは、根本的な回答にはなりません。

 私たちは決して強い人間にはなれませんが、あなたの存在を大切に思っている神を知ることで、自分を赦すことができるようになります。たとえ欠けがあったとしても、自分も存在として受け入れられているということを知ることが、自己肯定の基本です。そして、欠けがあるけれども受け入れられているということを体験している人のほうが、人を暖かく受け止めることができるはずです。

 神は、あなたを採点するために絶えず、あなたを見張っている存在ではありません。神はすべての隠れたこともご存知ですが、裁くことが第一の目的ではありません。聖書の中に次のような言葉があります。「主(神)はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」(1)

「神が御子(キリスト)を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(※2

 神の前で大切なことは、自分の正しい姿を認識することです。そして、そのうえで神の前に来ることです。あなたが親であるなら、子どもに対してもそのことを求めるのではないでしょうか。神は私たちの魂の親です。

神は、あなた自身を大切に思っておられることは事実です。しかし、あなたが拒否しているなら、体験としては味わうことはできません。ぜひ教会においでくださって、時間をかけて、神について、救いについて知っていただきいと願っています。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)

(1)旧約聖書イザヤ書30:18

(2)新約聖書ヨハネ福音書3:17