《自分の価値をどこに置くか》

 外国に出張か留学で行ってから、その国のキリスト教会に行って信仰を持つ方がいます。理由はさまざまで、外国で寂しくなったからという人もいれば、その地では宗教が社会に根付いているので、キリスト教会に行くのも勇気のいることではなかったという場合もあります。また、日本だと何となくみんなと同じなので安心だったが、みんなと同じという安心感がない状態で、自分が拠って立つものは何かと考えたことがきっかけだったという人もいます。

 日本の社会は、大多数の人が無宗教という立場を誇りに思っているわけですが、決してその立場は、世界の荒波の中に出て行ってどんな状況に立っても、強い生き方をさせてくれる土台とはなりません。自分の可能性を信じ、能力を信じて、がんばれるだけがんばってみることは必要ですが、誰でも人生の中で、自分の限界に出会います。自分の存在価値を自分の立場や能力に置いているなら、どうしても超えられない限界に出会った場合、自分の価値を失うこととなります。能力の限界はあるとしても、存在価値は別にあるのではないでしょうか。

 戦後65年を迎えて、多くのマスコミが平和のための番組を流しています。テレビ東京で放送された番組の中で、池上彰氏が「日本兵は捕虜となるということを想定して訓練されていなかったので、捕虜になった時に、多くの内部情報をしゃべってしまった」ということを言っていました。日本兵は捕虜となるぐらいなら自害せよと教えられていたわけですが、自害できなかったときに、呆然となってしまって、多くの機密をしゃべってしまったことがあったそうです。

 私たちの社会は、最悪の事態を想定しない社会です。たとえば、生前から死を真正面から考えることをしません。死は忌むべきものであり、普段の会話の時に持ち出すことは無礼なこととされます。しかし、余命1年ならどう生きるかとか、3ヶ月ならどう生きるかという教育も必要ではないでしょうか。

誰でも人生の中で不可能な事柄に遭遇しますし、人は必ずいつか死んでいくものです。限界を考えることが弱いのではなく、限界を考えておかないことが愚かなことです。

 表ページに書きましたように、存在価値を自分の立場や能力に置いているなら、どうしても超えられない限界に出会った場合、自分の価値を失うこととなります。努力し続けることは必要ですが、若いうちから立場や能力以外の価値を知っておく必要があります。どんなに落ちぶれても卑屈にならず、どんなに成功しても高慢にならないような、存在としての価値を見出しておく必要があります。

 そのためには、やはり人間が便宜的に作った神々ではなく、私たちが恐れをもってへりくだるべき神を知る必要があります。そして、その神は、憐れみ深く情け深い神であることを知る必要があります。

 なんで、神がいるならこんなに自分は苦しい状況なのか、神はいないのではないか、と思っている方もおられるかもしれません。確かに、生きていけば誰でも苦しい状況を通ることがあります。ある宗教団体は、何かを買えば、あなたの状況は好転するということを言いますが、それに乗ってはいけません。人は誰でも苦しい状況は通るのです。そのことと、神が存在するかどうかということは関係ありません。しかし、あなたを存在させた神を信じて従うなら、神は必ずあらゆる困難に脱出の道を備えてくださいます(※1)。また、神は、あなたが経験したすべてのことを益としてくださいます(※2)。

 教会では、あなたのおいでをお待ちしています。ぜひ、おいでください。

    (大泉聖書教会 牧師池田尚広)

(1)新約聖書コリント第一の手紙10:13

(2)新約聖書ローマ人への手紙8:28