《独り立ち》

 教育評論家の尾木直樹氏によりますと、大学の学食で一人で食べているのを見られるのが恥ずかしくて、トイレに入って食べる学生が多くいるそうです。ある学生が、(みんなに見られている状況で)ひとりで食べている人はいないと言っていました。親御さんも、お子さんの大学生活の詳細までは把握しておられないと思いますが、今の学食には昔では想像できないような風景があるようです。何が彼らをそのようにさせているのでしょうか。若い時は、誰でも自分は何者であり、何を拠り所に生きているのかを自問するものです。そのようにするなかで、自分はこれで行くというものを見つけて、自己を確立していくのが普通です。しかし、今の時代は、物事を深く考えさせない雰囲気があります。それは、親御さんの心の中に、自分の子どもを受験に集中させようとする思いや、おかしな道に進ませたくないという漠然とした恐れがあることが原因であるように思われます。

 そのように育てられた者は、何を拠り所にするかというと、とりあえず周りの人と違っていないという事実に拠り所を置いて生きていくと思います。そのような人にとっては、周りの人に仲間がいる状況で、自分だけ仲間がいないという状況を見られることは、大きな不安につながることなのでしょう。結果として、自分一人だけが周りと違っているという事実を、とりあえず見られなくて済むトイレの中で食べるという行為を選んでいるのだと思います。

 親御さんも、自分の子どもが将来困らないようにということに、ひじょうに熱心です。しかし、親御さんが考えている基準は、他の人と違っていていじめられはしないかとか、違っていることでバカにされはしないかというに重点があるような気がします。そういう意味では、お子さんは親御さんの生き方をまねているということが言えるかもしれません。

 この社会では、明らかに周りと違っているお子さんを与えられた親御さんは、最初は悩む場合が多いように思われます。

 なぜなら、親御さん自身の考えを変えなければならないからです。考えを変えるということは、悩み苦しむという経験を通して行われることがほとんどです。しかし、そのような親御さんの中で、あとになって、重要なことに気づかされる人は少なくありません。みんな違っていることは当たり前であり、違っている者同士だからこそ相手の違いを認め合えるはずです。また、そのような人は、生きていることそのものに感謝できる人となるからです。

 ある本に、他の人と違っている子どもを与えられた母親が、次のようなことを書いていました。こうでなければならないという考えを捨てて、神にゆだねなければならないことを教えられた。そして、神が遠大な計画の中で、子どもと私を用いようとしておられると思うということが記されていました。(1

 みんな違っていて当たり前という事実を受け入れただけでは、独り立ちのためには不十分です。神が意図をもって、私たち一人一人を存在させたという事実を認めることが、存在する勇気につながります。存在の理由は、その人自身の中にはなく、他のものの中にあります。そして、最終的な存在理由は神の中にあります。

 聖書の中に、次のような言葉があります。「あなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(2)

 自分とは何かというようなことを真剣に問うチャンスはそれほどありません。ぜひ、教会に来て、あなたをこの世に存在させた神について知っていただきたいと思います。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

    (大泉聖書教会牧師 池田尚広)

(1)「壊れた私、元気になった」水谷恵信著

(いのちのことば社マナブックスp.50

(2)旧約聖書 詩篇139:13