《比較によらない価値観》

 群馬県にある富弘美術館には、連日多くの人が訪れています。体が不自由な星野富弘さんが口に筆をくわえて描く草花と詩が、人々に希望や生きる力を与えるからです。星野さんと聖路加国際病院理事長の日野原重明先生の対談で、星野さんは次のようなことを語っています。

「私はケガをしたことが(神さまを信じた)大きなきっかけなんです。人の世話にならなければ生きていけない、こんな人間が生きていていいのだろうか・・・そう思っていた時、聖書に出会いました。聖書を読んでいくうちに、『生きていていいんだ、こういう人間でも神さまは尊く大事に扱ってくださるんだ』と教えられました。その時、『信じられますように』というより『信じたい』と思いました。そして、それまで自分の中にあった、人と比べて生きるという姿勢がなくなりました。人をうらやんで、人が幸せになると自分が不幸になり、人が不幸になると自分が幸せになる。日常生活は何も変わっていないのに、常に自分が幸せになったり不幸になったりする。それを毎日のように繰り返している。そういう世界から抜け出せた気がします。そして、自分が神さまにゆるされているのだから、自分も人をゆるすべきだと。これは少し努力が必要だったのですが、長い間聖書を読んでいるうちに、そういう考えが、少しは自然に持てるようになったんです。そして、人をゆるせた時に、いちばん平安を得るのは自分自身なんだということにも気づきました。」(※1

  われわれ日本人にとって、信仰を持つという行為はものすごく特別な行為です。そして、人間の側で、時と場合によって神々を使い分ける行為(多神教思想)を自由な生き方と理解しています。しかし、その生き方でいちばん弱い部分と思われるのは、結果的に比較による価値観から抜け出していないということです。私たち人間は、自分自身の存在価値を求めてやまない生き物です。世界の中で、人間と人間の関係しかないなら、どうしても比較による以外に存在価値を知る方法はなくなります。

 特定の神を信じるという行為は、ある意味では恐い行為です。その時から自分が中心ではなくなり、その神がその人の中で中心となる行為であるからです。しかし、比較による価値観から抜け出すことはできます。もし、すでに何かの信仰をもっているにも関わらず、比較による価値観から抜け出していないなら、その信仰は結局、比較による価値観から生み出された宗教であるという証拠です。

 ぜひ、教会においでください。私たちは最初からすぐに神を信じることを強要はしません。信仰は、自分の中心に神を迎える行為ですから、その人自身が時間をかけてしっかりと行うべき行為です。多くの人が想像することですが、しっかりと神を信じるようなことをすると、自分自身がなくなってしまうのではないかと考える人がいます。星野富弘さんは、星野さんの個性をむしろ発揮させて生きておられます。この点についても、じっくりと時間をかけて考えればよいことだと思います。おいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)

〔キリスト教の経典は聖書ですが、世の中には聖書を使う団体は多くあります。ぜひとも、信頼できるところに行って、聖書を学ぶことをお勧めします〕

(1)「たった一度の人生だから」(いのちのことば社フォレストブックス、P7071