《自分を愛する》

 現代社会は、他の人に対して「ノー」と言えなくて精神的にまいる人たちがいます。他の人が自分をどう思うかということが、その人にとってあまりにも大きなことなので、相手から否定されることは自分を失うことのように思ってしまうのが一因です。そして結局、他の人にほんろうされながら日々をおくり、時として悪いと知りながら、悪いことに関わっていく人もいます。

 キリスト教会に来る方々の中には、「ノー」と言えないような性格が原因で来る方々がいます。しかし、そのような方々の中には、あとで他の宗教の人から強い口調で批難されて、本心ではないのにそちらにひっぱられて行くような人もいます。

 すべての人に良く思われるということはあり得ないことですが、他の人から悪く思われたくないという思いが強いことが原因で、結局進みたい方向に行けないことは残念なことです。聖書の言葉の中に、「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」という命令があります。隣人とは、実際に隣に住んでいる人だけではなく、いつでも近くにいる人は隣人です。この命令は、「自分と同じように」という語句がついています。要するに、自分を愛するということは当たり前の前提として語られています。「自分以上に」とか、「自分を無にして」とか、そのようには語られていません。自分を愛するとは、自分を大事にすることであり、自分に与えられた個性や能力を受け入れることです。

 世の中には、自分を愛せない人が多くいます。それが原因で、人から悪く思われたくないということを基準に生きる人もいれば、逆に他の人を支配することを通して、自分の価値を築こうとする人もいます。つまり、同じことが原因で、ある人は他の人に対して「ノー」と言えず、ある人は他の人に対して「ノー」と言ってばかりということもあるのです。

 自分自身を本当の意味で愛することができるならすばらしいことです。他の人がどう思うかということに、それほど気を使うことはなくなるでしょうし、他の人を支配することで自分の価値を築こうとすることもなくなるでしょう。

 私が小学生の時、担任の先生が生徒たち一人一人に対して、おまえという人間は一人しかいないというようなことを語っていたことを思い出します。生徒たち一人一人に健全な自信を持たせることが目的だったと思います。ただ、自分は独特であるということを認めたとしても、そのことが自分自身を愛する動機となるとは必ずしも言えません。たとえば、ある人は自分の独特な性格がいやでしかたないかもしれないし、ある人は自分の独特な境遇を嫌って他の人と同じような境遇であることを願うかもしれません。

 では、私たちが自分自身を愛する健全な動機はどこから来るのでしょうか。それは、あなたをこの世に生かした存在を認めることです。あなたをこの世に生かした存在は、あなたの両親ではありません。両親の出会いや、両親が生きた文化、発展途上国か先進国か、あなたが生まれる前提となるものは、人間の意志を超えたことが多くあります。その部分で神の存在を認めることで、あなたが自分を受け入れ、自分を愛する前提が整います。

 聖書は、すべての人は罪と悲惨の中にあると語っていますが、それは自分を愛することができずに、間違った方法によって解決を求めようとしている生き方を表現したことでもあります。ぜひ、あなたを存在させた神を信じていただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会 牧師池田尚広)