《性善説・性悪説》

 日本の社会では、その宗教の性質を知る方法として、性善説か性悪説かに分ける分類方法があります。私たちキリスト教会の関係者も、キリスト教は性善説ですか、それとも性悪説ですかという質問を受けることがあります。それに対して私たちは、どちらでもないと答えています。なぜそうかというと、人はみんな意味を与えられて、尊いものとして神によって造られているという点では性善説とも言えますし、人はどんな人でも神の前に罪があるという点では性悪説と言えるからです。(尊い存在であるということと、罪があるということは矛盾しません。たとえば、子どもは、その親にとって尊い存在ですが、子どもは完全な存在ではなく、親によってしつけられなければならない存在です) 特に知識人といわれる人の中で、日本の社会は性善説で、西欧社会は性悪説で成り立っていると解釈をする人がいます。

確かに、何事にも最初の試験を難しくて、その難関試験を通った者は、あとでチェックを受ける仕組みがないのは、性善説から来ているのかもしれません。それに対して、最初の試験だけでなく、いつになっても結果が求められる西欧社会の構造は性悪説から来ているという見方もできます。
ところで、自然科学は西欧で発達しましたが、科学技術に対する絶対的信仰のようなものは日本のほうが強いということは興味深いことです。もしかして日本においては、科学技術と性善説が結びついたのかもしれません。今回の原子力発電所の事故については、各方面からさまざまな検証がされています。人がどんなに完璧と思われる準備をしたとしても、ほとんどが機能しないことを想定した準備がされていなかったということが、一つの反省材料です。また、私たち国民も、危険を承知で原発を設置している認識が足りなかったのかもしれません。

この世の中には完璧なものはひとつもありません。完璧を目指して努力することは必要ですが、危機管理においては、人は完璧ではないということからスタートしないと、やがて大きな損害を招くことにもなります。

 ところで、日本の教育の世界では「間違い探し」が大きな比重を占めています。親が自分の子どもに対して意識することも、間違わないことの比重が大きいような気がします。そのような中で育った者は、間違ったら受け入れてもらえないという感情を持って育っていきます。間違ったら受け入れてもらえないのであれば、自分は間違いをしないと思い込んで、間違った場合のことを想定に入れないか、間違った場合は間違いをごまかすか、そのような対応になるものです。そして、ごまかしを繰り返して、最終的に大きな付けを払うような場合もあり得ます。それよりも最初から、間違いうる自分を認めることと、そのような者でも受け入れてくれる存在を持つことが大事です。

 親が、自分の子が間違うことや、他人の子と違っていることにあまり気にしないということが大事です。故意の悪さは、しっかりと叱るべきですが、間違いをきつく叱って間違ったら受け入れてもらえないというような感情を与えてはいけません。

 神は私たちの魂の親です。神は、私たちの間違い探しをしているような存在ではありません。良い親が忍耐深くあるように、神は私たちに対して忍耐深いお方です。

「主()は、憐れみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」(旧約聖書詩篇103:8)

ぜひ、教会においでくださり、その神について知っていただきたいと願っています。

〔大泉聖書教会 牧師池田尚広〕