西郷隆盛と敬天愛人》

 2008年の暮れに、鹿児島市上竜尾町にある西郷南洲顕彰館で「敬天愛人と聖書展」が開かれました。これまで、キリスト教との関係があまり知られていなかった西郷隆盛が、実は聖書をよく読み、それを人に教えていたという証言も紹介されました。この展覧会で、西郷が読んでいたとされる香港英華書院刊の新約聖書が展示されました。この様子を記事にした南日本新聞によると、館長の高柳毅氏は、西郷が側近に漢訳聖書を貸し与えたという記事があることから、西郷が聖書を入手して読んでいたことが確かだと述べています。そして、西郷が説いた「敬天愛人」という教えのルーツとして、新約聖書マタイの福音書があるというのです。(当時、日本語訳聖書はまだ作られていなかったので、西郷は漢訳聖書を入手した)
 西郷が残したことばを記録した『南洲翁遺訓』(明治
22年出版)という本があります。その中には、明らかに聖書の真理を映し出していると思われることばもあります。たとえば、その本には次のように記されています。「天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
 聖書には、多くの箇所で『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』と書かれていますが、ひじょうに似ています。
 西郷は、降伏した敵方の武将に対して寛大な処置を取ったことがありました。戊辰戦争の原因となった薩摩藩邸焼き討ち事件では、犯人の庄内藩藩士をとがめることをせず、きわめて寛大な処置を取りました。
イエス・キリストは次のように語りました。
「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:44〜45)
西郷は、真剣にそのことばを実行しようとしていたと思われます。また、西郷が使った「天」ということばは、日本古来の儒教にある天の思想とは明らかに違うものでした。儒教の天は、宇宙の理(ことわり)や法則を指すことばだと思いますが、西郷が使った天は、そのような非人格的なものではなく、意思をもった人格的な存在を意味していました。たとえば、「天は人も我も同一に愛し給う」ということばからもそのことはよくわかります。

〔以上「勝海舟最後の告白」守部喜雅著(フォレストブックス)参照〕

 聖書の「自分と同じように、あなたの隣人を愛しなさい」との命令で、「自分以上に」と書かれてはいないことにも注目していただきたいと思います。一般的に宗教とは、実現不可能な理想を述べるものと思われることがあります。そして、自分を犠牲にして相手に尽くせと語るのが宗教だと思われることがあります。しかし、聖書は決してそのようなことを語っているわけではありません。聖書のことばには、「人が自分を大事にするのは当たり前だ」という前提があります。そのうえで、そのような大事な自分と同じように、隣人(家族や、知り合いや、偶然に隣にいる人、隣国の人たちなど)を大事にしなさいと言うのです。ぜひ、教会においでくださり、聖書のことばに目を留めていただきたいと願っています。
(大泉聖書教会牧師池田尚広)