《お墓について》

最近は、お墓についての考えが急激に変化してきました。核家族化の浸透などによって家制度は自然と消えていき、先祖代々のお墓を守り続けることも難しくなりました。また、たとえ長男家族でなくても、もしお墓を購入したとしても、子どもたちがお墓の維持のことで苦労することがあってはならないと考える人も多くなっているように思います。

その結果として、永代使用料を支払えばその後の支払いは必要のない散骨スペースが作られている霊園もあります(都立の多磨霊園にはそのようなスペースがあるそうです)。その他、最近の傾向として樹木葬や海への散骨も話題になっています。ただし、その考えも良いけど、そこまでは踏み込めないというのが多くの人の感覚ではないでしょうか。そして、子どもたちが墓地の維持ができなければ無縁仏となっても良いという前提で、一応小さな墓地でも買っておくかというのが現在の大多数の考えではないかと思います。また、墓地の散骨スペースに他人の骨といっしょにされることへの抵抗感というのもあるかもしれません。ちなみに、キリスト教会に来ている者たちは、たとえ他人の骨といっしょになっても抵抗を感じる人はいないと思います。なぜなら、その人の霊魂は墓場にはないと確信しているからです。

ある若い婦人が「姑(しゅうとめ)といっしょのお墓に入るのは嫌だ」と言っていたと知人から聞いたことがあります。死んだら墓の中に永遠に入っているという感覚を若い人でも持っているということだと思います。それで、一応お墓は買っておこうかと思う人が多いのではなでしょうか。

キリスト教の場合、お墓は故人を偲ぶ(しのぶ)ための一つの場所という位置づけはありますが、故人が本当にそこに存在しているということを言ってはいません。「そこに眠る」という表現がキリスト教の葬儀でも語られることはありますが、それは亡骸(なきがら)がそこにあるということであって、その人の霊魂は神と共に天にあるというのがキリスト教の教えです。この点に関しては、本当にそのように思えるかどうかということも深く関わっています。どの宗教であっても、それに近いことは語ります。しかし、そのように確信できる要素があるかどうかということがキーポイントとなります。

キリスト信者がそのように確信できる理由は、神の御子(みこ)が私たちの罪の贖い(あがない)のために犠牲となったという事実から来ています。仏教のある宗派でも悪人が救われるという教えもありますが、どのような手段でそのことが起きるのかが語られてはいません。聖書の中に、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(1)という言葉があります。その意味は、きよい神の前で罪を認め、犠牲のための「神の子羊」(2)とも聖書に記されているキリストによる罪の贖いを受け入れる者が、神から見てきよくされた者とみなされるという教えです。ちなみに、「義」という文字が羊と我の組み合わせなのは、1世紀にはすでに中国にキリスト教が伝えられていたからとも言われています。ぜひ、表ページで紹介させていただいた聖書を読んでくださることを願っています。

〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕

(1)新約聖書ローマ人への手紙1010

(2)新約聖書ヨハネ福音書129